安全なのに、なぜ体は張ったままなのか
DustEcho編集部

家に着いて、ドアに鍵をかけ、外は静かなのに、それでも肩は上がったまま、食いしばる歯、胸のあたりにずっと張ったままの糸があることに気づかないだろうか。リラックスしろと自分に言うほど、それはさらに締まる。
これはあなたが弱いのでも、精神力が足りないのでもない。あなたの体が緊張をデフォルトのギアにしているだけだ。
私たちはずっと急かされる環境で生きている。返信は即座に、仕事は早めに、予期せぬことはすぐに対応せねば。長くいると、神経系は備戦を常態にセットすることを覚える。あなたが本当に危険の中にいるか、ソファでスマホを眺めているだけか、体には見分けがつかない。撤収してよいという明確な合図が来ない限り、ギアはかかったままだ。
だからあなたが安全でも、体は通知を受け取っていない。芝居がもう終わったのに、舞台に立ち尽くす役者にようだ。筋肉は張り、呼吸は浅く、いつでも出番の構えだ。
つらいのは、リラックスしようとすればするほど、体がそれを信じないことだ。リラックスしなければというのは、新しい指令であり、新しい力の入れ方だからだ。体に届くのは早く、さあ緩めという声で、体が聞くのはまた任務が来たということで、さらになる。
これは不安とは別物だ。不安は頭の中に具体的な心配がある。ここでは体だけがぐるぐる回り、頭はむしろ空っぽだ。車は止まっているのにエンジンが唸り、あなたには聞こえるが、どうやって止めるか分からないようなものだ。
その糸を緩めるのに、単に緊張するなは役に立たない。体が必要とするのは、指令よりもゆっくりしたものだ。それは体のリズムが受け止められることだ。たとえば意識を足の裏の床の感覚に置くこと。吐く息をわざと長く引くこと。肩を己の力で下ろすこと。命令ではなく、許すことだ。
毎日何分か、すべきこと以外のことを何もせず、ただ座って、体に確かめさせるとよい。今返すべき連絡はない、消すべき火もない、ここが安全なのだと。一度の確認では足りない。繰り返し確認する必要がある。体の覚えは遅い。一度ずつの安稳を積み重ねて、デフォルトのギアを備戦から待機へゆっくり変えていかねばならない。
熱い風呂やマッサージで一度緩んでも、外に出れば肩はまた戻る。その緩みは受け身で借り物だからだ。体はまだ自分で緩むことを覚えていない。本当の解決は一度の完全なリラックスではなく、体が安全の味をますます多く知ることで、いつもの時もこうでいいと信じるようになることだ。
だから完全に緩れるという大団円を目指さないでほしい。それもまた任務になってしまう。目標を小さくしよう。今日はただ食いしばる歯を少し緩める、赤信号で肩を一度下ろす。そうした求められない小さな緩みこそ、体が聞き入れる合図なのだ。
自分が緩められないことを責めないでほしい。その糸は長くあなたの代わりに耐えてきたのだ。今のあなたは大きくなり、環境もあれほど険しくはない。少しずつ体に教えられる。大丈夫、速度を落としていいのだと。
ある日、また深く息をつき、肩が自分で落ちている自分に気づいたら、不思議がらなくていい。それは急にリラックスを覚えたのではない。体がついに、少しずつ信じたのだ。ここらの灯は消していい、警報は下りていい、と。あなたはこの、張らずにいられる安稳に値する。ゆっくりでいい。体は覚えが早い。ただこれまで、そんな機会を与えてこなかっただけだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。