なぜ私はいつも退勤までの時間を数えているのか
DustEcho編集部

朝のミーティングを終えて席に戻ると、まずやるのは仕事ではなく時計を見ることだ。あとどれくらいで帰れるだろう。終業間際だけを数えているわけではない。午前九時の時点ですでに数えている。午前のブロック、昼休み、午後のブロック、最後の一時間。一日が「自由まであとどれくらい」という断片に切り刻まれていく。
あなたは怠け者ではない。でも「いつ終わるんだ」という独り言は、オフィスに入った瞬間からほとんど止まらない。仕事が重くなくても、今日が特に辛くなくても、あなたの意識はとっくに退勤後のほうへ滑り落ちている。
体は席に、心はもう帰っている
時間を数えるという行動は、体はそこに座っているのに意識はとっくに去っているということだ。ミーティングにいるのに、脳は夜のご飯を考えている。メールを打つ手の一方で、心は週末まで何日かを計算している。
これは怠けではない。疲れる種類の「分裂」だ。仕事をやり遂げるために踏みとどまらなければならない一部と、とっくにここにいたくない別の一部。二つが引っ張り合うせいで、集中してやるよりもずっとエネルギーを食う。あなたは耐えているつもりだが、必要な半分の力で済むはずのことを二倍の力でやっている——半分は仕事に、もう半分は「まだ終わらない」という思いに。
昼間を「借金の返済」にしてしまっている
ほとんどの場合、あなたは働く時間を「無理やり貸し出された時間」とみなしている。この一日の区切りはあなたのものではなく、上司への返済で、退勤して初めて「手元に戻ってくる」ものだ。返済なのだから、早く完済して早く解放されたいと願うのは当然だ。
もう一つの可能性もある。手元の仕事そのものが、あなたを空っぽにするのだ。難しくはない。ただ、フィードバックも意味もなく、終わりの見えない車輪を回しているようなもの。車輪が一回転するごとに、あとどれくらいで止められるだろうと思う。あなたが数えているのは時間ではない。「この虚しさの中に、あとどれくらいいなければならないか」を数えているのだ。
数えれば数えるほど、遅くなる
皮肉なことに、時計を凝視すればするほど、時間は鉛を詰められたように動く。時計を見るたびに「まだだ」と自分に言い聞かせ、そのたびに小さな苦痛が繰り返される。時間を数えて早く帰れたためしはなく、八時間が感覚上は十六時間の長さに引き延ばされる。
数えることで安心できると思っているが、実際には「まだ自由じゃない」と何度も確認しているだけだ。その数字が一つ動くごとに「ほら、まだだ」と言われている気分になる。だから退勤が近づくほど待ち時間は長く感じ、本当に帰る瞬間にはぐったりして動けず、昼間の「自由」は前払いで使い果たされている。
「今」に小さな一片を残す
働くことが好きになれと言っているのではない。でも「あとどれくらいで退勤か」が目覚めている時間の背鳴りを占めているなら、あなたのものになれたはずの昼間も、前もって捨てられている。一日中夜を待ち、待った夜はからっぽにやってくる。
その合間に、小さくても本当にあなたが選んだこと一つを挟んでみてほしい。ちゃんと味わう一杯の茶、歩きながら聴く音楽、本当に知りたい小さな問い。大げさである必要はない。あなたが自ら占有する、返済を待つ時間ではない一片があればいい——そうすれば一日が、救いを待つ秒数を数えるようなものではなくなるかもしれない。
昼間があなたのものだと偽る必要はない。でも「全部が借金」の中から小さな一片をこじ開けて、しばらくはあなたのものにしておけばいい。その一片が仕事を楽にするわけではないが、その八時間の間に自分を失うスピードを少しだけ遅くしてくれる。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。