なぜ私は仕事で少し楽しむと、罪悪感を覚えるのか
DustEcho編集部

昼休みにドラマを一話見て、机に戻ると少し心虚だ。同僚が冗談を言い、笑った後で思った。なぜ私は仕事中に楽しんでいるのかと。そのわずかなゆとりは、盗んだもののようだ。
仕事は楽でいいはずがない
私の腹の底では、仕事は苦労と同じで、ゆとりは本分でないことだ。仕事中に楽しみが顔を出すと、すぐ声が飛ぶ。「してはいけない」と。作業台は真面目でなければならず、笑顔さえ線を越える。窓の外をぼんやり見るだけでも、戻ってはその緩みを「埋める」ために、もっと張り詰めた顔をする。
おかしいのは、「効率よく終えてから気持ちよく」も許さないことだ。気持ちよさは「全部終わった後」でなければならず、その「全部」は果てしない。だから気持ちよさはいつも明日で、今日は張り詰めるだけ。
楽しい隙間は盗んだよう
少しサボる、おいしいコーヒー、同僚との雑談。普通の隙間なのに、私はそれを「盗んだ時間」にする。楽しめば楽しむほど罪悪感が湧き、あの張った顔の後ろに急いで退がる。一度リーダーが笑っている私の傍を通り、笑いを飲み込んだ。悪いことを見つかったように。
後で思った。その笑いが何を損なったか。でもその羞恥は本物だった。私の体は「仕事での愉しみ」と「職務怠慢」を固く溶接し、離せなくしていた。
「真面目」と「張り詰め」を混ぜた
真面目は態度、張り詰めは状態だ。私は真面目でありながら弛んでいける。手は器用に、肩は緩く。でも私はそれを信じない。張っていなければ尽くしていない、厳しくなければおざなりだ。だから笑顔一つも「借り」として、もっと苦しい顔でその歓びを消す。
音楽を聴きながら仕事をちゃんとこなす同僚を、私はかつて「猛者足りない」と思った。今は分かる。あの人は真面目で、緩んではいない。自分のリズムを見つけただけで、怠けではない。
緩めると崩れると怖い
掘り下げると、一度緩めると戻せないのが怖いのだ。私の脚本では、緩むは滑ること、滑るは破滅だ。だから常に張り詰め、正常な愉しみさえあらかじめ絞め殺す。隙が開いて閉まらぬうちに。
でもいっぱいに引いた糸は早く切れる。私の「疲れても止められない」疲れは、まさにここからだ。緩めるを恐れ、いつも使い、好きなことさえ引き込まれるほどになる。
罪悪感のない隙間を残す
小さな実験。仕事に少しの「生産しない」愉しみを許す。コーヒーはちゃんと飲み、冗談はちゃんと笑い、すぐには返さない。それは盗みではない。人として当たり前だ。八時間、一片のゆるみもなく張り詰められる者はいない。
もう一つの始め。「弛んだ」を否定的から中立へ。真面目な人にも隙間はあってよい。隙間は穴ではなく、糸を長く引かせる息づかいだ。次に笑ったら、飲み込まず、二秒長く挂けていい。笑ったからといって仕事が崩れないと分かるはずだ。
もしあなたもそうなら、「給料泥棒の罪悪感怪獣」と自分を叱らないで。怠けではない。あなたは「よくやる」と「一片のゆとりも許さない」を等号で結んだだけだ。罪悪感のない一筋の縫い目を残そう。せめてそのコーヒーをちゃんと飲み干し、やるべきことへ急がないことだけでも。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。