なぜ休息もまず稼がねばならぬと思うのか
DustEcho編集部

金曜の夜、あなたはソファに崩れ、電話を放り投げ、ほっとするはずだ。しかし十分もしないうち、胸に一文が浮かぶ。今日の仕事、終わったか、と。はっとして、また立ち上がりメールを確かめる。
休息が大切だと知らないわけではない。休息をまず「稼ぐ」必要があると思っているのだ。貯金するように、今日の産出を十分に積まねば、一時停止を押す資格はないと。
この考えはどこから来たか。おそらく早くから「役に立ってこそ好かれる」と教え込まれたのだろう。小さい時は良い点をとって初めてご褒美、大きくなっては仕事を立派にやって初めて休む勇気。そうしてだんだん、頭の中に一つの秤を入れた。休息は支出、産出は収入、支出の前には必ず黒字が要る、と。そうなると休息は権利ではなく報酬になる。しかも自分で極めて高い敷居を設けた報酬だ。
だからあなたはいつも借りている。これを片付けても次がある。今日は基準を満たしても、明日の基準はまた上がる。あなたはその「足りる」を追い続けるが、「足りる」はずっと前へ動く。心おきなく横になれるその点に、一度も本当に着いたことはない。
一番疲れるのは働くことそのものではなく、働くことの他に、もう一つの仕事を背負っている点だ。自分が休息に値するか常に計算する仕事だ。この計算は休まず、あなたの勤務より長い。
この順を逆にしてみよう。休息は産出の末尾の代金ではなく、人が生きることにもともと備わる一部だ。腹が減れば食べ、眠たければ眠るように、その日「よくできた」にかからず効く。あなたはまず自分を証明してからでないと、息をつく資格はないわけではない。
ごく小さなところからこの構えを破れる。産出にかからない休息を決めるのだ。たとえば毎日寝る前の三十分は、今日何を成せようと、すべてあなたのものにする。その時間は、その秤に決算を出す必要はない。そうすれば分かる。先に稼いでから休むのでなければ、休息はかえってあなたを補ってくれる、と。もはやそれは受け取る資格の足りぬと恐れる報酬ではなく、あなたがもともと持つべき休止だからだ。
必死にならねば底力などどこからと言う人もいる。しかし振り返ってみてほしい。極限まで張りつめたあの日々が、本当にあなたをより安心させたか。たいていはそうではない。あなたはただより止められなくなっただけだ。止めればその秤が急かすからだ。本当の底力とは、いつも稼ぐことではなく、十分稼がぬ時にも自分に一口の息を残せるようになったことかもしれない。
自分に言ってみてほしい、泥臭いが効く一言を。私が休息するのは、今日が値するからではなく、私が人だからだ、と。これは簡単に聞こえるが、休息を報酬にするあなたには、それ自体が一つの休息なのだ。
十分に緩んだ日を待ってからでないと休息に値しないわけではない。今日から、やりたかったことができようとできまいと、まずその三十分を自分に与えよう。灯を消し、秤を片付け、あなたはただ一人、自分の場所に横たわり、何も借りていない。こうした休息を積めば、その秤はおのずと軽くなる。行動で告げたからだ。生きていることこそ、休息を稼ぐに足る、と。休息をメダルだと思うのはやめよう。それは呼吸であり、休止であり、満点でなくてももらうべきその一口だ。普通に休む勇気があればあるほど、今日の仕事終わったかという考えは浮かびにくくなる。それが一度沈めば、あなたは本当に生きている感覚を一層得る。それこそが休息のあるべき姿だ。
今夜から、その三十分を本当に自分に残そう。産出のためでも、効率のためでもない。ただあなたが人だからだ。功績と引き換えに息を求めるのをやめれば、生きていること自体が、よく休むに値することがゆっくり分かる。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。