なぜ私は「準備ができてから」でないと始められないのか
DustEcho編集部

机の右上に置いたあの手帳、あなたは三ページ目で止まったままだ。月曜日、やっぱり月曜日。忙しさが落ち着いたら、子どもが学校に行ったら、このプロジェクトが終わったら、本腰を入れて始めよう。そう言ったのは三月のこと。その後、窓の外の木は二回も衣替えしたのに、手帳はまだ最初の数ページに開いたままだ。
始めたくないわけじゃない。今が「ちょっと違う」気がするだけだ。もう少し状態が落ち着いて、邪魔が減って、自分がもう少し「まとも」になってから、というふうに。まるで「始める」っていう行為の前に見えない敷居があって、何かをためてからでないとまたげないみたいに。
あの「月曜日から」という約束、何回自分にしてきたか
でもそのタイミングは一度も来なかった。珍しいからじゃない。そもそも来ないからだ。だって一つの条件を満たすたび、次の条件が生えてくる。「この忙しさが終わったら」が終わると、今度は「休暇で少し回復してから」が必要になり、回復すると今度は「貯金がたまってから」。条件は自分の尻尾を追う輪になっていて、あなたが必死に走れば走るほど、それは早く回る。
問題は怠け者だからではない。「始める」と「失敗しない」をくっつけてしまっているのだ。まだ始めていなければ、あなたはまだ「可能性はあるのに手をつけていない人」でいられる。でも一度始めれば、自分が「うまくできないかもしれない」という真実と向き合わなければならない。あなたが待っているあの「準備完了」をほどいてみると、本当はこうだ。失敗する確率がゼロであるという保証を待っているのだと。そんな保証は、この世に存在しない。
あなたが待っているのはタイミングではなく、「失敗しない」という保証だ
さらに狡猾なのは、待つことがしばしば「準備」に化けることだ。資料を調べ、表を作り、計画を二十のサブタスクに割き、道具を揃える——それらはすべて目標に向かって動いているように見えるから、自分を良く思え、無駄をしている気がしない。でもそれらは同時に、あなたの精力を全部食いつぶして、「本当に手をつける段階」に決して届かせない。
準備は、始めないための格好いい言い訳になる。「サボっているんじゃない、ちゃんと準備しているんだ」と。
準備とは、始めないための格好いい言い訳になることもある
でも真実は逆だ。準備完了は、始めるための入場券ではない。始めることの副産物だ。用意してから出発するんじゃない、出発してから徐々に用意していくのだ。自転車に乗れるようになる人は、家でバランスを完璧に覚えてから出るわけじゃない。二回こけて、足がどうやって立つかを覚えるのだ。あなたが羨ましく思う「思い立ったらすぐ」の人たちも、生まれつき怖いもの知らずだったわけじゃない。ただ、もっと早くハンドルから手を離して、始めることそのものに後のことを教わせただけだ。
本当に始めてからでないと、準備が追いつく時間などない
だからもしあなたが「すべてが整う」朝をまだ待っているなら——それは来ないかもしれない。逆から試してみてはどうか。まだ十分でなくてもいい、失敗しようのないほど小さな一歩を踏むのだ。章を書くんじゃなく、一文を書く。マラソンに申し込むんじゃなく、靴を履いてブロックを一周する。
始めてしまえば、あの「まだ準備ができていない」という慌ては、動き出して数分のうちに、こっそり一二段階くだっていくことが多い。
「不完全なまま」から始めてもいい
別の自分になってからでないと、始める資格はないわけじゃない。あなたが始めるやり方こそが、その人になっていくやり方なのだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。