なぜ私は始める前に、もう疲れているのか
DustEcho編集部

何かを学びたいと思った。計画を書く前に、「ゼロから始める」と考えるだけで、もう疲れていた。体が疲れるのではない。一歩も踏み出さぬうちに足に鉛が入ったような疲れだ。本当に机に座った頃には電池は半分枯れていて、何もしていないのに。
疲れは「始める」より前に来る
私の疲れはたいてい「始め」の前に来る、後ではないと気づいた。人はやっていて疲れるが、私はやる前に疲れる。走るようなもので、人は号砲の後に息を切らすが、私はスタートラインで既に息を切らしている。
おかしいのは、大事に思うほどそれが起きやすいことだ。スマホを適当に見るのは疲れない。本当に座って書いたり練習したりしようとすると、大きな試験に赴くようだ。大切なほど、スタートラインは重い。
頭の中で全程を予習していた
私がやる前に、そのことを頭の中で一遍走らせる癖があるからだと思う。要点だけでなく細部まで演じる。どこで詰まるか、どの段で失敗するか、人はどう見るか、また途中で投げ出すか。この予習一遍で、大事な仕事は何度もシミュレーションされ、本当に手を付ける頃には情熱は既に自分で使い果たしている。
しかも予習ではいつも最悪に導く。脳は悲観的な監督で、崩れる場面だけを撮る。本番が始まる頃には、失敗の何バージョンも見ており、心身ともにその疲れを覚えている。
始めれば失敗と決まっているのが怖い
もう一層深いのは、「始める前に疲れる」には、言われぬ一文が潜んでいることだ。本気で始めたら、また「私には無理だ」と証明するのが怖いのだ。これまで何度も、張り切って始め、数日でその場に崩れ伏した。体は賢くなった。先に疲れて、「出来なかった」ではなく「疲れてやらなかった」にしてしまう。
これは優しい自衛でもあり、優しい罠でもある。面目は保つが、ひょいと可能性も鍵をかける。
始めを一口に切る
直し方はやる気を出すことではない。始めを予習する価値もないほど小さくすることだ。「今週で全体を書き上げる」ではなく、「今日はその文書を開けて一行書く」だけ。一行は予習する価値もない。疲れは起きない。
もう一つ。初めが下手でもいいと許すこと。前もって、この始まりは不格好で、詰まり、逃げたくなると自分に言う。構わない、下手な始まりも始まりだ。「良くなければ始めない」を「先に動かして後で良くする」に替えれば、予習の脚本は一塊落ちる。
半歩だけ踏んでみる
もしあなたもそうなら、自分を怠け者と罵らないで。怠けではない。まだ起きぬことを何度も前もって生きたから、疲れるのは当然だ。今日は半歩だけ試そう。そのことを滑稽なほど小さく割る。「本を棚から取って一ページめくるだけ」。半歩は予習に値しない。でもそれが本当に起きれば、最も重い線はもう越えたのだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。