やり直すことを考えただけで、なぜ疲れてしまうのか
DustEcho編集部

ある時期、あなたはとても「やり直したい」と思っていた。違う生活の状態に、昔の習慣を拾い上げて、生活をもう一度整えようと。その思いはきれいで、ようやく開いた白い紙のようだった。
そしてあなたはその白紙をじっと見て、ふっと疲れてしまった。体の疲れではない、「またか」という疲れだ。前回も同じように張り切って始めて、二週間も持たなかったことを思い出す。
怠けているのではない。「やり直す」という四文字の下には、これまで何度も持ち堪えられなかった経験が重なっている。
「やり直す」の下に重なっているのは、うまくいかなかった過去
あなたが動かないのを見て、他人は先延ばしだと思うかもしれないし、怠け者だと思うかもしれない。自分だけは分かっている。動きたくないのではなく、動いてまた止まるのが怖いのだと。
続かなかった挑戦は、本当に消えたわけではない。彼らはこっそり「やり直す」の下に積み重なり、「今回もたぶん同じだろう」という予測になった。だからあなたは新しいことに向き合っているのではなく、「また失敗するだろう」ということに向き合っている。自分をもう一度信じるだけで、すでに体力の半分を使っている。
これは「自己価値」のような問いとは違う。「私は不充分だ」ではなく、「やってみた、でもうまくいかなかった」なのだ。この二つの疲れは、来るところもやり方も違う。
なぜ空白のページが一番重いのか
一番難しいのは中盤ではなく、一歩目だ。
なぜなら一歩目は、公式に「やり直した」ことを意味し、自分にもう一度願いをかけることを意味するからだ。願いを立てるのは軽くても、それを果たすのは重い。あなたが怖いのは行動することではなく、また自分が果たせないのを見て、その紙をそっとめくることだ。
だからあなたは最初で止まる。最初が簡単だからではなく、最初が一番賭けのように見えるからだ。賭け金はテーブルの上にあり、手は浮いたまま、落とせない。
ゼロからではなく、「経験」から始まる
直感に反する考えがある。やり直すとはゼロに戻ることだと思っているが、実はあなたはこれまでの全挑戦を抱えて歩いているのだ。
あの「うまくいかなかった」経験は、くずではない。どの道が通じないか、どの瞬間に崩れやすいか、何日目に言い訳を探し始めるかを教えてくれる。初めて始めた時、あなたにその情報はなかった。だからあなたは原点に立っているのではなく、「すでに地雷を排除した」位置に立っている。ただあなた自身がそれを資産だと数えていないだけだ。
やり直すとは、過去を消して再インストールすることではない。使い古し、転げ落ちたものを抱えて、もう一度歩くことだ。今回はせめてどこが崩れるか分かっている。それ自体が進歩だ。
一歩目を「取るに足りないほど」にする
もし「まともな始まり」を待っていたら、たぶんずっと待つことになる。まともな始まりは重すぎて、重くて動きたくなくなる。
逆にやってみよう。一歩目を取るに足りないほど小さくする。「今日から走る」ではなく、「今日は運動鞋を履いて下に降りて一分立つ」;「人間やり直し」ではなく、「今夜はスマホをベッドから二メートル離す」。それが「やり直し」と呼ぶに値しないほど小さければ、賭けのような重みは感じない。
動き出せば、後のことは自分から生えてくる。あなたに必要なのは華々しい再起動ではなく、取るに足りない、静かで、果たせる小さな動作だ。
たぶんあなたはやり直せないのではない。ただ「始める」を重く考えすぎて、それがまだ起きもしないうちにあなたを押しつぶしているだけかもしれない。その白紙を小さく破いて、付箋ほどの大きさにして、一事を書き、やって、線を引く。残りは、明日でいい。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。