なぜ自分にふさわしいものを主張できないのか
DustEcho編集部

あるときあなたは遅くまで残業し、帰りのタクシー代を経費で出さなかった。忘れたのではない。「こんな金額のために言い出すのはケチっぽい」と思ったのだ。でもそれは本来あなたに戻るお金だった。
ふさわしくないからじゃない。順番が回ってくる前に、あなたが一歩下がっているのだ。
私の番なのに、一歩下がっていた
昇給、受け取るべき仕事、口に出すべきだった「私がやりたい」——それが本来あなたのものになる瞬間、反射は「やります」ではなく、縮こまることだ。手を伸ばすことが侵犯みたいに感じる。「欲しい」ということは、まず謝る必要があるように。
あなたは無能じゃない。何度も隣の人よりよくやっていたのに、「この件、参加したい」「この報酬は私のもの」と言うときだけ、のどが詰まる。だから機会は手元をすり抜け、あなたは分かっている。ただ、受け止めなかっただけだ。
欲しくないのではなく、自分で名前を消している
もっと微妙なのは、断られる前にあなたが引くことだ。あなたが先に動き、自分の名前をリストから消している。
書くべきだった申請書を出さず、挙手すべきチャンスを見て見ぬふりをする。他人がそれを手にしてから、心の中でため息をつく。でもそのため息は少し不公平だ。ドアは閉まっていない、あなたが外に立ってノックしなかっただけだ。
これは謙遜でも、大人ぶりでもない。早くからできたクセだ。「私にふさわしいか」を「たぶん違う」とデフォルト設定し、すべての動きがそのデフォルトに従う。
「私に値するか」は、ずっと宙ぶらりんのまま
根っこには、口に出さない「私に値するか」がある。それはずっと宙ぶらりんのまま、地面に落ちたことがない。
だから良いことが舞い込んできた瞬間、最初の反応は喜びではなく不安だ。「間違えたんじゃないか」「見誤ったんじゃないか」。その不安を避けるため、いちばん楽な方法は、最初から手を伸ばさないこと。伸ばすことは、長く宙ぶらりんのあの問いに向き合うことを意味し、あなたは答えを準備していない。
だから「手を伸ばさない」と引き換えに一時的な安心を得る。代償は、本来の自分のものを、その場に置いたままにすることだ。
手を伸ばさないと、ドアは本当に閉まっていく
ここに罠がある。伸ばさなければ伸ばすほど、そのドアはますます「私のものではなかった」ように見える。
機会を毎回手放すと、人はだんだんあなたのほうを見なくなる。あなたができないと思っているのではない、あなたの沈黙が代わりに物を言ったのだ。やがて「誰もチャンスをくれない」が本当らしい現実になる。でもその始まりは、ただ挙げなかったあなたの手だった。
持ち得る資格は待っていてはやってこない。何度も手を伸ばし、何度も受け止められて、少しずつ育つものだ。動かなければ、勝手には育たない。
一度でいい、手を伸ばしてみる
いきなり大胆にならなくていい。小さなことからでいい。本当はやりたかったプロジェクトに「興味あります」と一言。相手が払うべきご馳走を、わざわざ自分で払わない。うまく書けたメッセージを、悪いみたいな前置きなしで出す。
手を伸ばすことはわがままでも、世界があなたに借りがあることでもない。ただ、口に出さなかった「私にもできる、私も欲しい」を声にするだけだ。初めて手が震えても構わない。ドアは押して初めてほんの少し開く。まずは触れてみることだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。