なぜ職場でよくできた時、逆に見られたような気がするのか
DustEcho編集部

あなたは数週間粘って、あの企画をやっと成し遂げ、上司が会議で名前を挙げて褒めた。本来なら嬉しいはずだが、胸がざわつく。皆が私を見ている、次にできなかったらどうしよう、と。
あなたが恐れるのは叱られることではなく、見られることだ。よくできたことは、あなたにとって誉れではなく、自分を灯の下へ押し出すことだ。灯がともれば、全身がさらけ出し、普段隠している不器用ささえ隠せない。
これはたいてい「私は十分か」と絡んでいる。心の裏には原稿がある。私は本当はだめで、今回はたまたま運が良かった、と。一度見られてよくできたと、その「じつはだめだ」の秘密が危うくなる。他の人はあなたがずっとできていると考えるのに、あなたはそれが例外だと知っている。いつか化けの皮が剥れるのが怖く、もっと怖いのは、前も「装っていた」と人に気づかれることだ。
だからあなたには逆向きの二つの動きがある。一方で仕事をよくして、自分を証明し、もう一方で見られた時にはっと引っ込む。褒められると、まず笑い、手を振り、それに「みんなのおかげです」と足す。あなたが偽善なのではない。その一言の補いで、今さらされた場所をもう一度少し陰に覆いたいのだ。
結局、あなたはまだ「見られること」と「安全」を結んでいない。暗がりにこそ安心で、明るい所は検められ、期待され、比べられる所だと慣れている。しかし職場で、よくできたと見られることは本来良いことだ。それはあなたが信頼され、より多くを任され、待遇を語る底力にもなる。
「見られること」をもう一度読み直してみよう。次にうまくいって褒められたら、急いで遮るな。その言葉を体に三秒だけ止めてみる。受け答えも否定もしない。そうすれば分かる。灯の下は案外熱くなく、傍も必ずしも虫眼鏡で隙間を探しているわけではないと。
小さな事から練習できる。グループで礼を言われたら、ただ簡単にありがとうと返し、ついでに「たまたまです」は足さない。会議で褒められたらうなずき、すぐに功を押し付けない。光を自分で遮らないごとに、あなたは自分に告げている。私はよくでき、見られても、崩れない、と。
控えめでいる方が安定ではないかと言う人もいる。そうだ、過ぎた目立ちはうるさがられる。しかしあなたの問題は、普通に見られることさえ危険とみなし、少し光があれば飛んでいってそれを消す点だ。それは控えめではなく、恐れだ。両者の違いは、控えめはあなたの選ぶ落ち着き、恐れは本能の避けだ。その落ち着きは残しつつ、見られたらすぐ消すのはやめてみてはどうか。
本当の転機は、おそらくこうだ。「よくできた」を暴露ではなく、あなたの力がそこにあった証だと読み替えれば、灯はそれほど刺さなくなる。あなたのしたことは、見られるに値する。そして見られることは、ただそのことが自然に生んだ結果でしかない。
すぐに見られることが好きになる必要はない。まず「避けない」から始めればいい。褒められてすぐ謙遜を足さず、礼を言われてすぐ押し付けず、それだけで光を少し受ける練習になる。しっかり受けられるようになれば、灯の下には風はあるが冷くないと気づく。あなたがついに信じたからだ。あなたがそこに立つのは、したことの上であり、運でも演じでもない。他の人があなたのよくできたのを見るのは、あなたの破綻ではなく証だ。次に「みんなのおかげです」が口元まで来たら、まず三秒飲み込んでほしい。本当によくできたあなたに、少し見られる時間をやるのだ。長くはないが、それで「見られること」を良い知らせと読み直すには十分だ。
あなたのしたことはそこにある。他の人がそれを見るのは、何でもない響きでしかない。光を急いで遮らず、影に縮まるのも急がなくていい。灯の中にしばらく立てば、そこでもしっかり立てることが分かるはずだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。