なぜいつも忙しそうに見せなければならないのか
DustEcho編集部

こんな癖があなたにもあるだろうか。仕事は実は終わっているのに、パソコンを閉める勇気がない。同僚が通りかかると、急いで忙しそうな画面に戻す。グループチャットで進捗を聞かれ、誰より早く返信し、「今推してる」とひとこと足す。本当にそんなに残っているわけではない。ただ「今、あまりやってなさそう」と思われるのが怖いだけだ。
忙しいことは「価値がある」の代名詞になった
あなたはとっくに、ここでの暗黙の規則に気づいているはずだ。人の価値は何を生み出したかではなく、どれだけ忙しそうに見えるかで測られることが多い。静かに座って考えるのは、多くの人が言葉のいらないぼうっとしているように見なす。定時で帰るのは、熱意がないように見なす。だからあなたは「動いているところを見られる」ことを安心の源にした。画面がびっしりで、返信が即なら、あなたはまだ「頼れる人」のままだ。でもあなたにはもう分からない。自分が働いているのか、仕事を演じているのか。
怖いのは批判ではなく、不要なこと
もっと深くを言えば、あなたが怖いのは批判より無視かもしれない。忙しさを徳とみなす場所では、忙しくない人は余分な存在だ。無意識のうちにあなたは思っている。一度演じるのを止めれば、本当はそんなに多くの人に必要とされていないと、他の人に見破られるのだと。その「必要とされていない」という恐慌は、残業そのものより疲れる。だからあなたはずっと回り続けるほうを選び、「もしかしたら俺は代わりがいるかも」という冒険をしない。
静止は無駄ではない
でもあなたも分かっている。本当に大切なものは、たいてい静止を必要とする。よい案は静かに考えて生まれ、キーボードを叩いて生まれるものではない。重要な判断は、立ち止まって見る数分から来る。いちばん価値ある仕事は、表面はたいてい「忙しそうに見えない」。忙しさで自分を包むと、価値を生む本当の部分が押し出されてなくなる。余白がないから、深い思考の居場所がないのだ。
「忙しそう」を「言える」に替えてみる
この生き残り戦略を一度にひっくり返す必要はない。それは危険すぎる。小さな実験をしてみよう。次に誰かが「何してるの」と聞いたら、「いろいろ」ではなく「来週の案の筋道を考えてる」と言ってみる。「忙しいか」を「何を解決してるか」に訳すのだ。ゆっくり気づくはずだ。何をしているか言える人は、ただ忙しそうに見える人より、ずっと信頼されると。そしてあなたは、果てしない舞台からようやく一息つける。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。