なぜ仕事で頑張っている姿を見られるのが怖いのか
DustEcho編集部

発表の前、私は夜を徹して資料を五回も直した。でも同僚がふと「ずいぶん本気だね」と言うと、口をついて出たのは「いやいや、適当にやっただけ」だった。全力を出したのに、その苦労を隠すように急いだ。人に頑張っている姿を見せることが、恥ずかしいことだと思ってしまっていた。
この「頑張る姿を見られるのが怖い」は、職場でとりわけよくある。「失敗が怖い」よりも曲がっている。あなたが恐れているのは結果ではない。他の人に、じつは一所懸命やらなければならなかったのだと気づかれることだ。
努力は「十分でない」証拠と読まれていた
多くの人の中に一つの等式がある。本当にすごい人は、楽にやっているのだと。だから「努力が必要」はこっそり「才能が足りず、補うしかない」と等しい。人にその苦労を見られるのを恐れるのは、それが「じつは私はそこまでできるわけではない」と認めるようなものだからだ。
職場はまた、从容を演じるのも好きだ。誰もがぐちゃぐちゃを隠し、磨き上げた面だけを見せる。だからあなたも汗を内側にしまう。先に必死だと見せた者が、先に弱みを認めたように見える。
頑張る姿を見られても、見下されるわけではない
ここに誤解がある。人があなたの努力を見ても、あなたを劣っていると思うとは限らない。むしろ頼りになると思うだろう。どうやってできたか見えない「楽な達人」より、手をかけることをいとわない人こそ、事を任せやすい。
あなたが隠すものこそ、相手が確かめたがっていることかもしれない。あなたが本当に心を込めているのだと。「頑張っている」と口にしても、あなたが小さくなるわけではない。協力する人に、どこで受け止めればいいかを教えるだけだ。
「頑張る」をふつうのこととして扱う
小さなことから練習する。「よくできているね」と褒められたら、急いで「たまたまです」と突っぱねず、「そう、本当に考えてやりました」と言ってみる。初めは気まずい。隠していたものを表に出すようだ。でも十分に言えば、それで見下されたりはせず、関係がより本物になったと気づく。
あなたが恐れているのは「道半ば」を見られること
もう一層深く見ると、頑張る姿が怖いのは、他の人に気づかれるのを恐れているからだ。あなたにも自信がなく、よろめいているのだと。私たちは同僚を審判、自分を舞台の上の人としすぎている。力む姿が少しでも出ると「十分でない」欠点になる。
でも本当の仕事に、一度に出来上がるものはない。楽に見える人にも、たいてい裏にはそれぞれのぐちゃぐちゃがある。力みを隠すのは、他の人が手を差し伸べる可能性を断つことだ。あなたが必死だと相手は知らないから、どこで助ければいいかもわからない。
頑張る姿を見せるのは、弱みをさらすことではない。信号を出すことだ。このことに心を込め、近づいてもいいと。職場でいちばん揺るぎない関係は、二人とも楽を装うのではなく、二人とも「私も頑張っている」と言える関係だ。
あなたがいつまでも楽に見えていなければならないわけではない。必死なのは欠点ではない。あなたが気にかけ、そこにいる証拠だ。頑張る姿を見せるのは、弱点をさらすのではない。人が近づく入り口を差し出すことだ。次は、その力みをあまりきれいに隠さないでほしい。少し見せれば、関係は本当に結ばれる。
まずは「本当のことを言う」から小さく試す
大会で「頑張っている」と宣言する必要はない。信じられる一人の前で、ときどき「これ、ずいぶん時間がかかった」と言えばいい。相手はたいてい「大変だったね」と返し、「じゃあできないんだ」とは言わない。そのほんのり緩んだ瞬間が、あなたを「楽に見えなければ」という芝居から、少しずつ抜け出させてくれる。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。