なぜ僕は何かが起きたときだけ「生きてる」と感じるのか
DustEcho編集部

友だちに言われた。最近顔色がいいね、生活も落ち着いてるねって。僕はうなずいたけれど、胸の奥は空っぽだった。悲しくない。ただ、あの穏やかさがまるでラップみたいに全部を包んでいて、痛くも痒くもなく、何も味がしない。
それから先週、パソコンが突然壊れて全部消えた。焦るはずなのに、奇妙なほどほっとした。やっと「本当のこと」が受け止められると思ったから。
平静なとき、僕はガラス越しに自分を見ている
穏やかな日々の中では、感情はとても薄い。つけっぱなしだけど聞いていないラジオみたいだ。ないわけじゃない。ただミュートされていて、遠くでふわふわ漂っている。
にぎやかさを自分から作ることも試した。人と会ったり計画を立てたり。でもあの喜びは演技のようだ。口元は上がっているのに、本当の僕はそこにいない。
僕の感覚は「何かあるとき」だけ目を覚ます
あとで気づいたことがある。僕がわざと混乱を好むわけじゃない。体が、警報が鳴ったときだけ「まだ生きてる」と確認するように訓練されていたのだ。
ずっと緊張し続けていた人は、「何かが起きること」と「僕がいること」を結びつけてしまう。警報がなければ実感がない。意外がなければ、日々は現像されていないフィルムのように真っ白だ。
ドラマが好きなんじゃない、静けさに迷うだけ
これは別のことだ。わざと自分で問題を作る人もいる、あれは能動的だ。でも大勢の人は受動的にしか目を覚まさない。危機や衝突や突発の中でだけ、「ここにいる」と感じる。
あの迷いは平和が嫌いなのではない。平和の中に自分の居場所がないのだ。座標のない部屋のように、電気が消えたときにはじめて壁に手を伸ばす。
小さなことにも「意味」を持たせよう
僕は不器用なやり方を覚えた。わざわざ災難を待たなくても、感じていいのだと。
難しい文章を書き終えたとき、ちょうどいいコーヒーを淹れたとき、ベランダの葉をふいたとき。その平淡な瞬間に、心の中でそっとうなずいて、これも「ここにいた証拠」と印をつける。
それらは軽い。でも一つずつ、静けさの中にも少しずつ重みが生まれてくる。
何かを経験しなければ、生きている実感を得る資格なんていらない。穏やかさも立派な「在る」のかたちだ。ただそれはとても静かで、わざわざ目を落とさないと見えないだけ。
次に何事もない穏やかな日がきたら、急いで混乱を探さずに、まず目を落としてみてほしい。あなたはずっとそこにいたのだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。