感情が溢れてきた時、なぜ私は固まるのか
DustEcho編集部

そんな瞬間があっただろうか。悲しいはず、あるいはうれしいはずのことが起きて、周りの人はもう反応しているのに、あなただけその場に立ち尽くし、まるで一時停止のボタンを押されたようだ。動きたくないのではない。動けないのだ。のどが締まり、手足が重くなり、頭が真っ白になり、まともな言葉ひとつ絞り出せない。
これを心がない、冷たいと自分で決めつける人が多い。しかし実際に経験した者だけが知っている。固まるのは感じていないからではない。その逆だ。感覚が一度に強く来すぎて、身体が受け止めきれなくなっているのだ。
私たちは小さいころから、感情を処理するよう訓練されてきた。悲しい時は言葉にし、怒る時は説明し、喜ぶ時でさえ格好よく表わすよう求められる。しかしあふれそうな感情が押し寄せてきた時、人はまず一度止まっていいのだということは、誰も教えてくれない。その固まりは、身体が言っているのだ。多すぎる、ちょっと待って、息をつかせてくれ、と。
それは勢いよく開けられた部屋の扉に似ている。扉は壊れていない。ただ中があまりに明るくて、まだ準備ができていないだけだ。あなたの体はその一瞬、開けっ放しではなく鍵をかけるを選んだ。拒絶したのではない。いったん全部開くと、自分が流されてしまうと恐れたのだ。
だからあなたはその場に固まり、言葉はのどで止まり、表情はそのまま止まる。傍から見れば石像のようだが、あなた自身だけは知っている。中では音のない地震が起きていることを。
これは感情の鈍麻と混同されやすいが、向きは逆だ。鈍麻は感じる敷居がすり減って、大きな刺激でないと届かない。凍結は敷居はまだあるのに、その向こうのものが多すぎて急すぎて、身体が本能的に堰を下ろす。一方は鈍感すぎ、もう一方は敏感すぎる。敏感すぎて、システムが我先に一時停止を押したのだ。
凍結反応には心理学に名前があり、闘争か逃走かと同じ家族の親類だ。脳が勝ても逃げられもしないと判断した時、身体は一時的な静止に入る。小さな動物が危険を感じて死んだふりをするようなものだ。これは弱さではない。身体に刻まれた古い仕組みが、あなたが脅威に気づく前に、先回りして決めたのだ。
面白いことに、この反応は一見安全な場面でよく引き金を引かれる。優しい大丈夫という声、突然の抱擁、相手が真剣にあなたを見て返事を待っている瞬間。他の人には何でもないようなひとときでも、あなたの体には多すぎるという合図になる。そしてまた鍵が下りる。
だから固まることを社交の失敗だと思わないでほしい。それはただ、あなたの守る仕組みが理性より早く走っただけだ。あなたを守ろうとしたのだ。ただ場違いな場所で発動しただけだ。
あなたにできるのは、固まるなと自分を無理に迫ることではない。後で、その扉を少しだけ開けることだ。小さなことから始めよう。今は言葉が出ないと言っていい、少し離れてもいい、感情の中でもう五分だけ居てから返事をしてもいい。これらは逃げではない。あなたの体に、ここは安全だ、ゆっくりでいいのだと教えているのだ。
次にまた固まった時、慌ててどうしてまたこんなになったと自分を責めないでほしい。心の中でひとこと言ってやってほしい。ちょっと待つね、いいんだよ、と。身体に時間をやり、安全だと確かめさせれば、その扉は自分からゆっくり開く。すぐに何かを処理しなくていい。ただそこに留まることを許すだけで、それはもう自分を大切にすることなのだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。