なぜ私はだんだん何も感じなくなったのか
DustEcho編集部

ある夜、メッセージが届いた。心が重くなるはずの出来事だった。画面を見つめて数秒、でも胸の内はただ平らで、天気予報を見ているのと同じくらいに。思わず「なんか、悲しむべきなんじゃないか」とも考えて、でもそのスイッチが回らないと気づいた。
無関心なわけじゃない。そのことが大事だって分かっているし、昔の自分なら傷ついたはずだって分かっている。でもその痛みは、まるでミュートにされているようで、存在は聞こえるのに、体には届かない。
あとで気づく。これはただの一通のメッセージだけの話じゃない。たくさんのことがそうなっていた——友達が嬉しいことを話しても、笑って受け流す、笑顔はちゃんとしている、でも笑いが底まで届かない。感動する動画を眺めても、頭に浮かぶのは「よく撮れてるね」で、スワイプして去り、胸に波紋はない。自分にいいことがあっても、その喜びは薄く、ガラスの向こうから見ているようだ。
冷たいのではなく、ただ隔てがあるだけ
外からあなたを見る人は、クールになった、落ち着いた、と思うかもしれない。でもあなた自身だけは知っている。それは落ち着きではなく、距離だと。
あなたと世界の間に、誰かがすりガラスを一枚引いたよう。外のことはちゃんと見えるし、ちゃんと受け止められる。でも「伝わってくる」はずの温もりが足りない。分析もできる、対応もできる、泣くべき時に涙を流せる、笑うべき時に口元をゆるめられる——でもそれは、感覚そのものがあなたを通り抜けるのではなく、あなたが自分を上手に操作しているようだ。
これは「無関心」とは違う。無関心は扉を閉めて、かかわりたくないとする。鈍感は扉を開けたまま、ただ遠くに立ちすぎていて、音が届く頃には形がゆがんでいる。
いつも通りに生きられる、いやいつも通りに笑える
いちばん不安になるのは、まさにこの点だ。あなたは壊れてなどいない。
いつも通りに出勤し、いつも通りに用を足し、人前では「感情が安定した人」だ。感情の消耗を少し省けたぶん、誰よりも多くを耐えられる。でもその代償に、良い側も一緒に暗くなった。人の喜びにはなれるのに、自分のために弾むのは難しい。日々を整えられるのに、何かにそっと撃たれることはめったにない。
あなたは疑い始める。私ってもともとこのくらい鈍感な人間なのか、と。そもそも何にも関心がないんじゃないか、と。
違う。鈍感は性格ではないことが多い。それは応急処置のようなもので、長く使いすぎて、外すのを忘れただけだ。
いつから始まったのか
だいたい、ある日突然始まったわけではない。
それはたくさんの「今はそれを考えるタイミングじゃない」が重なったものだ。理不尽な思いをした瞬間、あなたは飲み込んだ。泣く暇のなかった別れに、まずは忙しさを片付けてから、と自分に言い聞かせた。胸がきゅっと引っ掛かった時、もっと急な用事を見つけてそれを覆い隠した。そのたびにあなたは正しく振る舞い、「乗り切った」。ただ体だけが一つを覚えた。感情が満ちすぎるとろくなことがない、ならボリュームを少し下げておこう、と。
少し下げて、また少し。ある日、もう回らないと気づくまで。
それはあなたを罰しているのではない。守るためにやっているのだ。守りすぎて、いつしか初期設定になっただけ。
ボリュームを戻すのを急がなくていい
今、無理に「感じる」よう自分に命じても、たいてい失敗し、余計に空っぽになる。感覚は命令で戻ってくるものではない。
まずはごく小さなことからでいい。あの「平ら」な感覚が訪れたら、急いで説明をつけず、追い払おうともせず、ただ気づく——あ、今の私は空っぽだ、と。湖の傍を通りかかって水位が低いのを見て、それを責めず、すぐに水を注ごうともせず、ただ見るように。
ときどき、ほんの小さなものがふっと届く瞬間がある。古い歌のイントロ、うなじに触れた風の冷たさ、誰かが何気なく言った一言。その時は分析しないでほしい。「なぜこれで反応するんだ」とも問わず、そこにちょっと滞在させておけばいい。
ボリュームは一度に戻るのではない。一目盛りずつ緩む。以前のように傷つきやすい人に戻る必要はない。ただ、ときどき、そっと触れられることを、もう一度許せばいい。
たぶんあなたは感じていないのではない。ただ、感覚をミュートにしただけだ。そしてミュートにしたのは、乗り切るために、あなた自身が押したボタンだった。もう乗り切ったのだから、そのつまみを、ゆっくり、少しずつ戻していけばいい。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。