なぜ良いことがあっても、私はあまり感じないのか
DustEcho編集部

友達が「本当に嬉しいよ」とメッセージをくれた。画面を見つめ、「ありがとう、ありがとう」と打ち返した。そして、あまり何も感じなかった。悲しくない。ただ、湧き上がるはずの喜びが来なかったのだ。繋がっていない器に水を注ぐようなもので、音は聞こえるのに、手は乾いたまま。
他人は私の笑顔を待っている
一番虚しくなるのは、良い出来事そのものではなく、周りが私に喜ぶのを期待する顔つきだ。昇進も、プレゼントも、心からの褒め言葉も、その場にはいつも無言のまなざしがある。「今、笑うべきだ」と。私は笑える。でもその笑顔は外に出すもので、内側から生まれたものではない。反応を待たれて囲まれるほど、私は「良い知らせを受け取った人」を演じているようで、演じ終えて一人になると、中はやはり空っぽだ。
あるとき、これは足りないと思っていた。でも違うと分かった。足りないのは「もっと欲しい」であり、私は「良いことが来たのに、受け止められない」のだ。名前が随分違う。
ガラス一枚隔てたよう
その感覚は具体的だ。私と良い出来事の間にガラスが一枚あるようなもの。見えるし、どれほど良いかも言えるのに、温もりは伝わらない。人の喜びは染み込むが、私の喜びはショーウィンドーの外で頷くだけ。
恥ずかしいのは、私が実はもう一側はよく感じられることだ。悲しみも、慌ても、誤解も、来た瞬間に通じて、体がすぐ反応する。でも甘いもの、褒められや安定や好かれや、は蓮の葉を滑る水のように流れて、残らない。
痛みは感じるのに、甘さは滑り落ちる
これがなぜか、長く考えた。一つの説はこうだ。私の感情の配線は「痛み」側が長年研ぎ澄まされてきた。何年も、事が起きた時だけ誰かが本当に私を見てくれたからだ。「良い」側は受け取る練習をあまりせず、次第に錆びていった。不釣り合いなのではない。その筋肉を使ってこなかっただけ。
これはもう一つのことも説明する。なぜ私が「事が起きてからでないと本物だと感じない」のか。私の体は「強い刺激」と「生きている」を結びつけてしまったのだ。良いことは軽すぎて、静かすぎて、本当だとは認めない。
不届きではない、ただその線が錆びただけ
だから、自分に「冷たい」という札を急いでは貼らないで。良いものに反応がないわけではない。良いものを受ける線が、ただ長く通電していなかっただけ。線はまだある。繋ぎ直す時間が少し必要なだけだ。
小さな始め方。良い知らせを「すぐに喜ばねば」という課題にしない。良いことが来ても、まずは「分かった」でよい。遠くから届いた手紙のように、急いで読まず、机の上に置く。自分に「あ、良いことがあった」と許し、水を一杯汲みに行く。感じは少し遅れて来る。でも来た時、それは演じたものではなく本物だ。
もう一つの始め方。大きなことを小さく割る。「昇進した」という大げさな言葉より、「今日の昼ごはん、誰かが私の注文をちゃんと覚えてくれた」「さっきの褒め言葉、半分は耳に入った」に気づく。甘いものは一口ずつでないと、体が受け止められない。
無理に喜ばなくていい
もしあなたもそうなら、「なんて鈍感なんだ」という自分への責めを降ろして。他人はガラスの外で笑顔を待ち、あなたは中で手を温める。これらは矛盾しない。その温もりを本当に感じた時、それは勝手に広がる。予習はいらない。
そして、もし身近にそういう人がいたら。良いことがあっても「いいね」と淡く言うだけなら、すぐに「感動してない」と言わないで。彼はただまだ繋がっている最中かもしれない。見守られていない時間を少しあげて。それが、無理に笑わせるより、良いことそのものに近い。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。