なぜ良いことが近づくと慌てるのか
DustEcho編集部

良いことが近づいている。合格通知、告白の返事、ずっと待っていたチャンス——ふつうなら嬉しいはずなのに、胸がどきどきし、眠れず、スマホを何度も見る。その良い知らせが近づくほど、取り調べ室の外で待っているような気分になる。欲しくないからではない。良いものが近づくと、体が先に警戒モードに入るからだ。
慣れ親しんだ「張り詰め」は、「緩み」より身近だ
日々が長く構えっぱなしなら——締め切りを追い、面倒に対処し、予期せぬことを支え——あなたの神経系は「悪いことが来る」姿勢に適応している。突然何も背負うものがなくなると、用意していた反応が行き場を失い、ぶらつく。ずっと向かい風を歩いていた人が、風が止むとかえって立っていられないようなものだ。その不安は目の前の良いものに呼応しているのではなく、「まだ何も起きないのはおかしい」という空白に呼応している。あなたは緊張に詳しすぎて、安心に不慣れなのだ。
良い知らせは、コントロールできない大きな変数だ
良い知らせにはたいてい「その後、変わる」という意味がつく。関係が決まり、生活が軌道を変え、期待が高まる。そしてそれはどれもあなたの手に負えない。何でも自分で支えることに慣れた人には、手をつけられない変数は、わかっている面倒より怖い。脳は予測可能なことを好み、「もし上手くいったら、次はどうする」を最も嫌う。だから喜びを前もってリスクに両替し、あなたを「準備させる」——たとえその準備が悪い方向でも。
「もう一つの靴」が落ちるのを待っている
もう一つの古い癖がある。良いものが現れると、たいてい代償が続く。あなたは「ほっといたらすぐ事故」を何度も見てきたから、体はそのリズムを覚え、良い後に必ず転ぶと決め込む。だから良い知らせがまだ道中のうちに、想像上のつまずきを受け止めるために身をかがめている。悲観ではない、経験主義だ。あなたの警報システムは「嬉しい」と「何か起きる」をくっつけて溶接し、どの行が警告でどの行がただの喜びか区別がつかない。
「その良さに値しない」のが怖い
もう一層深く言えば、中には慌てる人がいて、ふんわり「こんなに良いことが私に降りてくるのはおかしい」と感じる。規格外の贈り物を受け取った時、まず受け取るのではなく領収書を確認するのと同じだ。持てないのが怖く、早慶びしすぎるのが怖く、いったんこの良さを認めたら後で化けの皮がはがれて恥をかくのが怖い。そのざわつきは、本当は「私は良いことが巡ってきていい人間だ」をまだ信じきれていないことだ。門前の良い知らせがまず映すのは、運ではなく自分への疑いだ。
良い知らせには、入ってきてから口を開かせる
すぐに慌てなくなるわけにはいかないが、「確認」と「心配」は分けられる。知らせが来るまでは脚本を書かないこと。上手くいったらどう、崩れたらどう、実際に起きてから考えればいい。そのざわめきは、体がウォーミングアップしているだけで、警報ではない。期待にも小さな出口を一つ残そう。ほんのり嬉しくなるのを、多すぎず少なすぎず、予行演習として許していい。良い知らせが本当に着地した時、つまずきはついてこなかったとわかる。そしてあなたは、それを支えられる。
あなたが台無しにする人間ではない。ただ良いことが平穏に入ってくるのを、長く拒んできただけだ。今回は、ドアを開けておこう。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。