なぜお金の話をすると恥ずかしくなるのか
DustEcho編集部

誰かが一緒に事業をしようと誘ってきて、だいたいの話がまとまったころに、相手がじゃあ配分の話をしようと言う。するとあなたは固まってしまう。まるでお金の話をすること自体が、人目につかない恥ずかしいことのようだ。みんなで食事に行って割り勘のときも、あなたはレジを取って自分で払ってしまう。でも私の分を送ってと言うのは恥ずかしくて、結局自分でその分を吞み込む。お見合いで収入の話題になっても、あなたは無意識に話をそらす。何かを隠しているみたいに。
ケチなわけではない。お金の話が出ると、関係が変な空気になる、という居心地の悪さだ。喉に刺さったとげのよう。当たり前のことなのに、あなたにとっては勇気が要る場面になる。
こんな居心地の悪さは、多くの人にある。
どんな姿をしているか
場面によって顔を変える。職場では、当然昇給すべきなのに口に出せない。お金の話をすると打算的だと思われると考え、上司が気づくのを待つ方を選ぶ。人間関係では、友人に借りたお金の返済を促すのが恥ずかしくて、自分が締め付けられるのを承知で、一言で友情が薄まるのを恐れる。自分に少し高いものを買うときでさえ、私はそれに値する、と自分を説得するための理由を山ほど探す。まるで楽しむことに許可が必要なようだ。
つまり、お金の話とよくないこと、を同じものだと決めている。お金の話は打算的だ、感情を傷つける、野心をさらけ出す、というふうに。だから避けられるものは避け、避けられなければ気まずく、気まずさが過ぎたあとで、あのときはっきり言えばよかったとこっそり後悔する。
この感覚はどこから来るか
多くの人にとって、お金の物語は子どものころにこっそり育った。大人はお金の話をするとき声を潜め、外の人には言うなと言った。家計が苦しいとき、お金は恥や足りない、と結びつけられた。お金の話は仲を傷つける、という言葉自体が、子どものころから聞かされてきた家訓だった。そんな家では、お金は中立な道具ではなく、テーブルに載せられない何かだった。
やがてお金は道徳の信号になった。口に出せば、私は下品だ、私は貪欲だ、と晒しているようだ。この物語は目に見えない。稼ぐことを止めるわけではないが、お金を平静に受け止めることを止める。稼いだのに、堂々とそれを認められない。
もう一つの層がある。自分の価値がお金と強く結びついていると、お金の話は自分がどれだけ値するか、を晒すようだ。昇給を求めることは、自分をはかりに載せること。その裸のような感覚は、お金そのものより怖い。
私たちにどう影響するか
一番直接的なのは、損をすることだ。給与の交渉を恐れて、十年で数十万を失うかもしれない。借金の取り立てを恥ずかしがって、お金が恩義の借金になり、関係はかえって重くなる。半年以上も友人のアルバイトのような仕事をした人を知っている。報酬の話を切り出す勇気がなく、最後には相手が当然のように、あなたはもともと助けたかっただけだ、と思い込み、彼は言い場所もなく不満を抱えていた。
もっと深いのは、関係のゆがみだ。あなたは立て替え、耐え、吞み込む。表向きは何もないが、心の中に不満がたまる。相手はあなたが不快なのを知らず、あなたも言わない。ひびがそうやって生まれる。お金の話をあいまいにすると、結局傷つくのは感情そのものだ。それなのに、あなたはそれを守ろうとしたのだ。
また、チャンスを逃すことにもなる。共同でやるなら配分ははっきりと。プロジェクトなら値段はちゃんと言う。あいまいさは品格ではなく、自分の足元に地雷を埋めることだ。
こうしてみてもいいかもしれない
次にお金の話をする前に、まずそれを道徳から用事へと戻す。お金は道具だ。お金について話すことは、物事をはっきりさせることであって、誰かの人柄を裁くことではない。昇給を求めるのは、労働に値段をつけること。割り勘は、互いの支払いを尊重すること。見積もりを出すのは、協力に明るい始まりを与えること。
中立的な言い方を一つ練習してみよう。費用の分け方を確認しましょうか、と。謝罪も冗談もなしに。時間と場所を決めるのと同じくらい普通に。それを繰り返せば、そのとげはゆっくり柔らかくなる。
おわりに
お金の話は下品ではない。話さないことこそ、ゆがみやすい。お金のことをテーブルにそっと置ける人は、かえって安心して付き合える。なぜなら、その人と付き合えば、勘定は明るく、心は開かれていると分かるからだ。
お金は関係の試金石であるべきではない。だが、率直にお金の話をすることは、大人の関係における稀な品格だ。次に固まったとき、自分に言い聞かせてほしい。あなたは下品な話をしているのではない。ただ一つのことをはっきりさせているだけだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。