なぜ私はいつもお金が足りない気がするのか
DustEcho編集部

口座には残高があり、来月の給料も入る。それなのに数字を見つめていると、胸がざわつく。これで足りるだろうか、もしものときはどうしよう。友人が旅行に行くと言えば、最初に思うのはいくらかかるかだ。欲しいものを見ても、本当に必要か、とまず考える。本当に貧しいわけではない。足りない、という底鳴りのような感覚だ。背景でずっと鳴っているラジオのよう。
この足りない感覚は、口座の残高とめったに合わない。
どんな姿をしているか
節約だけの話ではない。使うべきところで使わず、省く必要のないところで必死に省く。それでも貯めてもまだ慌てる。請求書を払ったばかりなのに、すぐに来月はどうなる、と考える。ボーナスが入っても貯金に回し、祝うことさえ省く。手の中のお金は水を掬うようだ。満たされているのに、こぼれると確信している。
一番典型的なのは数字への不安だ。数日に一度口座を覗き、一度見て二時間ほど安心し、またざわつき始める。お金は減っていない。慌ても止まらない。
この感覚はどこから来るか
多くの人にとって、足りるという基準は動く地平だ。子どものころ家計が苦しく、大人はお金がないと言った。その不安は体に育ち、自分で稼ぐようになっても、体はまだ貧しさを覚えている。だから足りるとは数字ではなく、まだ危険を抜けていない、という状態だ。決してたどり着けない。
さらに消費主義が扇動する。他人がもっとよく暮らし、もっと高く買い、もっと楽に生きているのをいつも見る。比べ始めると、足りるが遠ざかる。足りないわけではない。もっとあれば安全だ、と感じるだけだ。
したいことと必要なことを分けられない人もいる。したいことが必要に圧縮され、必要が不安に膨らむ。あらゆるものが必需のように、あらゆるものが足りないように見える。
私たちにどう影響するか
生活の質がこっそり下げられる。買えないわけではない。楽しむ勇気がないのだ。おいしい食事も、旅も、好きなものも、後で必要になるかもしれないと消される。人生がただの蓄積になり、なぜ蓄積するのかを忘れる。
人間関係も影響を受ける。夫婦がお金でけんかする。たいてい本当の不足ではない。一方は足りないを恐れ、もう一方は足りているのにあなたはまだ締め付けていると思う。二つの金銭観がぶつかり、不満は穴より大きい。
一番惜しいのは、今を逃すことだ。いつも後で、足りてから休もう、と待つ。だが足りるは後退し続け、現在がこぼれていく。
こうしてみてもいいかもしれない
足りるに具体的な錨を一つ置く。たとえば本当の月の出費を計算し、三から六か月分を掛ける。それがあなたの安全の敷居だ。それに達したら、ほっと息をついていい。足りるを浮動する目標から数字に変えるのだ。
また、必要と欲しいを分ける練習をする。欲しいことが罪ではない。たまに欲しいものを満たすのは、生きる一部だ。未来への裏切りではない。
小さな気づき
また口座を覗き、心の中で足りないを計算し始めたら、立ち止まって問おう。この慌ては今日の本当の状況か、それとも古い不安が今日の場面を借りて再生しているか。答えはたいてい後者だ。足りないと今まさに必要なこと、を分けて見れば、自分が思ったよりしっかりした地盤に立っていると分かる。お金は道具であり、敵ではない。休む間もなくあなたと組み合っていてはいけない。
おわりに
お金の意味は、もっと自由に生きるためだ。もっときつく守るためではない。いつも足りないという慌ては、たいてい現実ではない。古い不安が今日の口座を借りて語っているのだ。
しっかり貯めも、安心して使いもできる。足りるかは不安が決めるのではなく、本当に生きるために必要なことで決めるべきだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。