なぜ自分のためにお金を使えないのか
DustEcho編集部

他人のためなら気前がいい。友人の誕生日にプレゼントを選び、家族が欲しいと言えばすぐに買う。だが自分の番になると、支払いをダブルクリックする瞬間に手が止まる。数百元のコートをカートに入れては消し、消しては入れる。食べたい食事は結局いちばん安いものにする。お金がないわけではない。自分のために使うことが、罪のようだ。
こんな罪悪感を抱える人は多い。
どんな姿をしているか
細部に隠れる。商品のページに長く留まり、評判を全部読み、私はそれに値する、と自分を説得する。買った瞬間に後悔し、これを省けたはずだ、と考える。品物が届いても、最初の反応は喜びではなく、無駄遣いをしたか、だ。自分のために使う一つ一つのお金が、自分裁判を一巡する。
対照は鮮やかだ。他人のためには迷わない。自分のためにはいつも量刑を下す。同じお金で、相手が変わるだけで、重みがまったく違う。
この感覚はどこから来るか
多くの人は子どものころから他者を先に、と教え込まれた。家計が苦しい家では、いいものは子どもや老人や客に回り、自分は最後だった。やがて自分のためと利己的が、こっそり同じものだとされた。あなたは値しないわけではない。私が先に考えること自体が、間違っていると感じているのだ。
節約で自分がしっかりしている、当てになる、と証明する人もいる。実家や親しい関係では、節約は認められる品性で、使うことは説明の要るわがままだ。だから使うことは、その認めに背くことになる。
もう一つの層がある。自分の価値が低いと、私はこんなにいいものに値しない、と感じる。買えないわけではない。深いところで、いいものはもっと上の人たちのもので、あなたはその名簿にいない。
私たちにどう影響するか
一番直接的なのは自分をないがしろにすることだ。体が壊れてから休み、物が壊れてから替え、暮らしの小さな良さを全部消す。あなたは誰よりも自分に冷たい。
もっと深いのは関係の不均衡だ。あなたはいつも与え、決して受けない。そうすると他人はかえってあなたに良くしてくれない。自分の場所を低く置きすぎて、誰も近づく入り口が見つからない。不満がたまり、誰も本当に私を気遣わない、になる。だがドアを閉めたのはあなただ。
また、自分に良くされてみる練習を逃すことにもなる。自分に良くすることは贅沢ではない。ちゃんと生きる土台だ。自分を甘やかさないなら、何をもって人生を支えるのか。
こうしてみてもいいかもしれない
自分への出費に小さな予算を一つ置く。毎月決まった額を取っておき、理由のいっさいない、あなたを喜ばせる小さなことだけに使う。花を一束買い、おいしい食事を食べる。ただあなたが望むからだ。
買う前に自分に問おう。一番の親友がこれを望んだら、無駄遣いだと言うだろうか。友人にはそんなに厳しくしない。自分にもそうしよう。
ずっと無視してきた人
あなたは注意深く他人に良くする。だが自分にはいちばん厳しい。でもあなたも疲れるし、欲しいものがあり、甘やかされてもいい人だ。自分を名簿の最後から前へ動かすことは、利己的ではない。人に良くするということに源を与えるのだ。自分にさえ優しくできない人の善意には、不満が混じっている。まず自分を大事にしなさい。そうすれば世界に出す善意はきれいだ。あなたは自分に優しく扱われるに値する。それは誰の後でもない。
おわりに
自分に気前よくすることは利己的ではない。自分を大事にされるべき人として扱うことだ。他人に与える良さは、すでにあなたが人に良くするのは当然だと信じている証だ。その人にはあなたも含まれる。
あなたに使ったお金は無駄ではない。それは自分自身に対する人生の清算だ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。