なぜこんなに疲れているのに、止められないのか
DustEcho編集部

こんな瞬間、ありませんか。もうソファにへたり込み、スマホも置いたのに、頭の中の小さなエンジンがまだ空回りしている。急ぎの用事があるわけではない。ただ「何もしない」という静けさが、ふと慌ただしく感じてくるのです。だからまたスマホを手に取り、またパソコンを開き、本当は急ぎでない用事を片づけてしまう。終わったあとさらに疲れるけれど、少なくともあの慌てた感じは覆い隠せる。
これはあなたが怠け者でも、勤勉でもない。これは多くの人が疲弊の中で陥る循環です。もうすっかり疲れているのに、止められない。
止められないのは、たいてい「やり残し」があるからではない
「止められない」を「やることが多すぎるから」と説明しがちです。でも振り返ってみてください。本当に目を閉じられなかった夜の多くは、ToDoに三つ残っていたからではなく、じっとしていると普段「忙しい」で覆い隠していた何かが浮かび上がるからでした。空白かもしれない、自分への不満かもしれない、世界に取り残されるという言葉にならない不安かもしれない。
動くことは、ときに非常に効果的な麻酔です。手が何かをしている限り、頭は止まったときにしか出会わないものに触れずに済む。だから疲れているほど、新しい用事を引き受けがちになる。必要だからではなく、静止するのがつらすぎるからです。
体はとっくに降参しているのに、頭はアクセルを踏み続けている
この体はあなたが思う以上に正直です。肩や首の凝り、眠れない夜、原因のはっきりしない胃の不調——すべてが「もう十分、まず止まれ」と看板を掲げています。でも認知の層はよく聞き入れません。私たちは「休む」をこっそり「無駄」と同義にし、「止まる」を何かの危険信号と見なしてしまう。まるで産出を止めた瞬間、取り除かれ、置いていかれるかのように。
だからひどくねじれた状態が生まれます。体はとっくに熄火しているのに、意識は代わりにアクセルを踏み続ける。あなたは横になっているのに、内側の歯車は止まっていない。この「居るけれど電源が入ったまま」の空回りは、働くことそのものよりも電池を食う。
「役に立つ」を唯一の安心の源にしてしまっている
深く見ると、止められない人はふつう、こっそりこう信じています。私がまだ回っている限りだけ、居場所がある。産出を止めた瞬間、私は何でもなく、代わりが効く存在になる、と。この信念は口に出せなくても、バックグラウンドでずっと動き続けている、制御できないスクリプトのように。
だからこう表れます。疲れるほど、まだ担えることを証明したくなる。空っぽになるほど、予定を詰め込む。疲れを知らないわけではない。あの「必要とされない」一瞬が、疲れそのものより怖いのです。機械が空回りできるのは、止まっていることも一つの機能だと誰も教えてくれなかったからです。
「電源を切る」ことも予定に入れてみる
休み方を覚えろと言うつもりはありません。そんな助言は聞きすぎると余計に不安になるだけです。言いたいのはこれです。あの「何もしない」ことを、会議のように予定に入れ、裁かれない場所を与えてみてほしい。ご褒美でも、罪でもない。ただ機械が本来持つべき待機状態として。
たとえば今日、生産するものを何も納めない十分を自分に許してみる。返信も、片づけも、「無駄にしてるんじゃないか」という考えもなし。ただ止まっている。その一瞬に慌てたとしても、別の用事で急いで覆い隠さないで。その慌てを見て、「今はただ待機中で、壊れてるわけじゃない」と自分に言い聞かせる。
いつも回り続けるこの機械を、すぐに直さなくていい。でもせめて見抜いてほしい。止まらないのはあなたという人間ではなく、あなたに被せられた、自分でも同意していないかもしれないスクリプトだと。そしてスクリプトは、一度、実行しなくていいのです。
いつか本当に止まって、すぐに新しいことを掴もうとせず、そのせいで自分が嫌にならなくなったなら——それはあなたが怠けたのではない。ついに機械を待機状態に戻したのです。待機は故障ではない。それこそが、先へ進み続けるために必要な前提なのです。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。