簡易:どれほど乱れても、一本の糸の端は掴める
DustEcho編集部

簡易は「易」の三義、変易と簡易と不易の一つ。「易簡にして天下の理を得」とは、乱れの中にも握れる単純な道理があるという意味である。大地の変化がどれほど大きく、どれほど入り乱えていても、その裏にある道理は、人がひとつかみにできるほど明快に縮められる、というのがこの言葉の込められた思いである。ごたごたは、たいてい天の仕業ではなく、人が自分でぐるぐる巻いたものだ。そして簡というものは、「易」が人に触れさせたかったあの一点である。世界を小さく見ることでも、浅く見ることでもない。乱れのなかで、その軸を見分けること。あとの枝葉は、もうあなたを縛るものではなくなる。古い知恵がこう言い残したのは、人が自分の賢さでくらくらするのを案じたからだ。
友人がいる。机の上にはいつも、返事の遅れたメッセージや、読みかけの書類や、予定に入れ損ねた小さな用が山のように積もり、画面の片隅には十幾つもの未読の赤い印がぶくぶく浮いている。彼女は怠け者ではない。ひとつひとつが「大事」に思えるから、すべてを目の前に積み上げる。積めば積むほど慌てるようになり、いちばん大事なひとつさえその下に埋まって、彼女は山の中に座ったまま、半時間ひと指動かせずにいる。あとで彼女は、自分にただひとつの問いを投げるようになった。今日それに触れなければ、何が起きるか。たいていの場合、答えは「何も起きない」だった。簡易の描くのは、まさにその一太刀である。「すべてが大事」を「今この時いちばん大事なもの」に切り落とす。そうすれば乱れた玉の中の糸の端が顔を出し、手も空いてそれを引けるようになる。
何でも掴もうとすると、何も掴めなくなる
人はよく、ある錯覚に陥る。物事を多くしたり複雑にしたりすることが、生活を真面目に受け止めることだと思い込むのだ。だから書き出すリストは長くなる一方で、計画はびっしりに詰まり、休むことさえ「効率のいい休み方」に決め、ぼんやりすることさえ時間を計る。しかし手というものは、たかが知れている。十の物を掴むのと三つの物を掴むのとでは、握りしめる程度が天と地ほど違う。十の中で本当に掴みとどめられるものは、ひとつもないかもしれない。簡易の裏側にある的是、いい加減さではなく、欲張りである。何も手放したくなくて、結果としてどの用にも端っこだけ触れ、跳ねる蛙を何匹も同時に押さえようとして、最後には一匹も留められないようなものだ。老子は「少則得、多則惑」と言った。これも同じ層の真理である。少ししか持たぬほうが、かえって持てる。空いた手が、本当に大事なものを受け止められるのだ。「多」の混乱は、生活が辛い証拠ではない。手があまりに薄く広がって、何ひとつ重みを持たなくなった証拠である。
乱れたときは、まず動かない一点を見つける
簡易の指すものは、問題を消すことではない。乱れの中で、めったに動かぬものがまず見つかる。絡まった糸の玉は、むりに引っ張ればさらに固くなる。しかし端がどこかを見つけて、それに沿って引けば、玉全体が緩む。生活の「糸の端」とは、たいていもっとも素朴な問いである。この用は、そもそも私に何をさせようとするのか。誰のためか。今この時いちばん恐れているのは何か。答えはたいてい、一文で澄む。あとの繁雑さは、それから勝手に生えた枝葉であり、主客転倒してはならない。まして幹を覆い隠してはならない。多くの人が慌てるのは、用が本当にそれほど大きいからではない。枝葉を幹だと思い込み、細かなかけらを抱えてぐるぐる回り、最初に向かった方向を忘れているからだ。動かぬ一点は、わりと最初からそこにあった。ざわめきが、それを見えにくくしていただけである。
複雑なものを、自分の歩ける一歩に訳す
大目標に怖じ気づく人は、怠けているからではない。目標が大きすぎて掴みどころがないからだ。一目見渡せば、隙のない壁のように立ちふさがり、人は自然に引く。簡易の名づける知恵は、遠い山を足元の一歩に訳すことである。転職したいなら、まず「失敗したらどうしよう」を考える必要はない。今週、誰かひとりと話せるかを考えよう。よいものを書きたいなら、まず「傑作を書く」を目指す必要はない。今日、座って五百字書くことを考えよう。体を整えたいなら、まず「根本から変える」を考える必要はない。今夜、半時間早く眠ることを考えよう。複雑な用をこのように分解して通せば、壁は低い段の連なりになる。段が低ければ、人は踏み出す気になる。踏み出しているうちに、壁も越えてしまう。簡とは、行いに入口を残すことである。開けるのを恐れなくなるほど小さな戸を、そこに置くことだ。
簡は、省くことではなく、主次を分けること
簡易は「省けるところは省け」と勘違いされやすく、そうなると、真剣に扱うべき用さえいいかげんに片づけられる。実のところ、簡は省くことではなく、どの用に力を注ぐ価値があり、どれを通り過ごしてよいかを見分けることである。簡易の求める真剣さは、いらないところでこそ深くなる。十の用に散っていた力をひとつに集めれば、そのひとつは深くでき、相応にできあがる。省かれるのは枝葉であり、残るのは幹であり、幹の上の工夫はひとつとして省けない。絵を描くようなものだ。余白は簡であるが、そこにあってしかるべき一筆は、千鈞の重みを持ち、いっしょに省くわけにはいかない。簡易の難しさは、まさにこの辺にある。何を残し、何を捨てるかを知り、清く捨て、しっかり残すこと。「簡」と「いい加減」を混同するのは、いちばんやりやすい間違いであり、そのために人がこの考え全体をうたがうようになる。
簡は、鍛える力である
矛盾するように聞こえるかもしれない。簡易は軽く見えて、やってみると力が要る。加えること、というのは人の欲と焦りに沿うから、何も考えずに加える。仲間を加え、用を加え、思いを加え、苦もなく。減らすこと、というのは、一見役に立つものを自分の手で置くことであり、その一挙手は、取るよりむしろ難しい。満ちた胸のものを外に出すようで、一つ出すごとにひとしずく惜しい。だから簡易の描くものは天分ではなく、鍛える力である。毎日、ごたごたの中で、どの用が実はしなくてよいか、どの言葉が実は返さなくてよいか、どの道が実は迂回してよいか、どの集まりが実は断ってよいかを見分ける用意がある。長く鍛えれば、人はすっきりする。世界が単純になったからではない。あなたが世界の代わりに乱れを足さなくなったからであり、目もまた、大事でないざわめきを飛ばすことを覚えたからだ。その清さは与えられるものではなく、筋肉のように鍛されるものである。
一歩簡にすれば、世界は一圈り小さくなる
多くの人は「すべてが片づいてから」でなければ動こうとしない。しかし片づくというのは、簡にしたあとにこそ訪れる結果であって、その前提ではない。まず一歩簡にせよ。しなくてよい用をひとつ置き、返さなくてよい言葉をひとつ返さず、ただ騒ぐだけの仲間をひとつ閉じれば、世界は一圈り小さくなり、息の詰まったあの玉に口が開く。簡易は状態ではなく、動きである。あなたがまずその減らす一挙手をして、霧が晴れるのだ。霧が晴れてからでなければ動かぬ、というのではない。どれほど多くの人が「用意ができてから」で立ち止まっているか。実のところ、できたという感じは、減らしてゆくうちに来るもので、待っていて来るものではない。人はいつも、静かな一点を夢想する。そこへ行けば、もう麻を解く必要はない、という場所だ。しかし生活にそのような点はなく、乱れこそが常のありさまだ。簡易は、世界を一度にすっきりさせることではない。毎日、あの幾つかの減らす動きをする用意があることだ。毎日掃くように。床が二度と塵をかぶらぬなどと望まず、ただ足元にいつでも清い場所が残るよう求めるだけだ。簡のできる人は、より軽く生きるのではない。力を値うちのある場所に使うことを知り、あとはそれに任せる。一つ一つの用を、ことごとく自分の荷にする必要はない。
結局、簡易の名づける目は、霧を抜けて見る目である。霧がどれほど厚くても、山の形は残る。用がどれほど雑然としていても、軸は残る。すべての糸を整える必要はない。ただその一本を掴めば、あとはただの背景になる。昔の人が「易」からこの層の意味をひとつ抜き出したのも、人が自分の賢さでくらくらするのを恐れたからだ。大道は至って簡なり。簡になりきって、あなたがそれを信じる気になれば、それで足りる。一团の乱れを、手の中の一本の清い糸に変えるのに、それで十分なのだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。