不易:何もかもが変わってしまう時にも、変わらずにいてくれるものが一つだけあれば
DustEcho編集部

「易」という一字は、易経という古い書物の中心にある字である。昔の人は、この一字に三つの意味が重なっていると言った。一つ目は変易、すなわちすべてが動くということそのもの。二つ目は簡易、入り組んだものの奥にある単純な筋道が見えるということ。三つ目が、この文の主題である不易である。ふつう「変わらないもの」と訳される。考え方は暖かい。あれこれ入れ替わる中にも、動かぬものがいくらかはある。変化の法則そのものは変わらず、人の心のなかで一度落ち着いた場所は、そう簡単には動かない。これは頑固になることや、古いものを離さずに握りしめることの勧めではない。ただ、すべてが流れる川のなかで、立っていられる岸を一つは持て、という思い出しである。そうでなければ、人は根のないうき草になり、風が吹く方へ流され、そもそもどこへ行こうとしたのかさえ忘れて、波に運ばれるだけのものになってしまう。
祖母は長く生き、三軒の家へ引っ越したが、古い四角い机だけは手放さなかった。天板は湯呑みの熱で何重にも輪が焼きつき、脚は緩んで重みをかけると軋んだが、それでも取り替えようとせず、子どもたちが買ってきた新しい食卓は客間に追いやった。周りは昔恋しだと笑った。祖母はただ「機があれば家があ」と言った。後になって分かった。あの机は家具ではなかった。そう簡単には動かない一点だった。外の世界がどうひっくり返っても、扉を開ければ同じ場所にあり、茶碗の向きも昔のまま、布の模様もいつか選んだ柄のままである。不易という考え方が指すのは、まさにこの「まだある」という証である。高価でなくてよく、流行っていなくてよい。だが、扉を開けた瞬間にほっとでき、外の風には付いていかなかったものがいくらかはあるのだと知らせてくれる。
変わりばかりの世の中で、動かぬ物差しがいる
人は環境も関係も心も動く。前文の変易である。しかしすべてが動くと、人は重心を失う。一定の速さで回る部屋のなかで上下も分からなくなるように、今日はこれを信じ、明日はあれを追い、結局どれにも根が下りない。重みのない影になる。不易という考え方が補うのは、まさにその底石である。あまり動かないものを一つか二つ持て。自分に向かって言い続ける言葉。毎年行く場所。忙しくても残す小さな習慣。説明を尽くさずとも分かってくれる人。これらは目立たない。だが、生活に回されながらも、こっそり「あなたはやはりあなただ」と告げてくれる。波にさらわれた泡ではなく、波のなかにも立つ岩であり、波が過ぎればやはりそこにある。
名前をつけず守る小さな決まりごとが、人にはある。同じように淹れる茶。同じ道順の散歩。繰り返す歌。どれも世を変えはしない。だが、自分がどこにいるかを教えてくれる。動かぬ点は檻ではなく座標である。それがなければ、新しいものはことごとく同じように切実に見え、説明のない切実さは音になる。座標があれば、動かすべき波と通り過ぎすべき波が分かれる。この言葉が指す安定は、壁というより地面に打った柱である。縄を結べば、縄に意味が生まれる。
古いものを守るのではなく、譲れないものを守る
不易を堅苦しいことと誤解しやすい。世の中がここまで来たのにまだ変わらぬか、と人は言う。しかし不易の守るものは、具体的なやり方そのものではなかった。やり方の裏にある、譲れないものである。年配の者は新しい機械を知らなくても、「人には誠実に」という守りは変わらぬ。職を何度も替えても、「物事には心を尽くす」という念いは替わらぬ。友だちは散ってまた集まっても、「決めたら真面目に」という気性は替わらぬ。不易は根であり、殻ではない。殻は形であり、替えてよい。替えるべきであり、替えればこそ時代に追いつける。根は替える必要のないものであり、替えれば人は空っぽになる。根を抜かれた木は、どんなに丈夫な枝でも何日も持ちこたえられぬ。どちらが殻でどちらが根かを見分けるのが、簡易と不易が合わさって教えることである。簡にして落とすものは落とし、残すものは残す。
この見分けには静かな勇気がある。動かぬことを恐れる不安の多くは、層を間違えている。殻を替えるのを自分を失うと呼び、根を守るのを遅れていると呼ぶ。この言葉の贈り物は、二つを分けることで、外側は動いても内側はばらばらにならぬようすることである。道具も住所も意見も新しくして、それでも誰かに対してよくしたと知って眠る人こそ、この違いを分かっている。彼は旧式でもなければ流されるでもない。動く床の上に、動かぬ床を持つのである。
その変わらぬものは、戻れる場所である
いちばん確かな不易は、どれほど遠くへ行っても戻れる場所があると知っていることである。かならずしも実際の故郷である必要はない。人かもしれぬ。リズムかもしれぬ。自分と一人でいるやり方かもしれぬ。毎年冬にする小さなことかもしれぬ。悲しい時自分に言う言葉かもしれぬ。外で求められ、裁かれ、押し流されて一日が過ぎたあと、その変わらぬもののなかに戻って初めて息が届く。遠く歩いた人が自分の窓の灯を見るようである。それは難題を解かず、借金を返さず、決断を代わりにしない。ただ思い出させるのである。世が顔を翻しても、翻さぬ隅はまだある。いつも身構えなくてよい。緩めてよい。誰彼とも鋭く向かわなくてよい。時には、大きくならぬ、受け止められた子どもになってよいのだと。
戻りを可能にするのは、そのものがどこにも待たず、何も求めぬことである。習慣は咎めず、場所は言い争わず、自分に言う言葉は自分のものだからすでに味方である。だからこそ、この変わらぬものは選ばれねばならぬ。押し付けられたものではいけない。押し付けられた固定点は、また別の要求になり、要求こそあなたが逃れていたものである。不易の自由は、説明なしに帰れる自由である。岸にいる資格を得るために、岸にふさわしくある必要はない。
守りきれない時も、自分を責めなくていい
人は石ではない。波に眩み、その変わらぬものさえ手放す時は誰にでもある。不易という考え方は、決して動くなと強いるものではない。方向を一つくれるだけである。手を離したなら、戻る道を覚えていよ。流される場所に居座って戻らぬよう。守りきれぬことは罪ではない。ただ、岸はやはりあるのに、あなたがしばらく遠く泳いだだけだと告げる目印である。振り返れば、その変わらぬものは元の場所にいる。一度去れば本当に無く、振り返っても掴めぬ他のものとは違う。だから不易の考え方が示すのは、「きっと揺るぎなくあれ」という圧し付けではなく、「慌てた後でも、やはり戻れる」という慰めである。
これは聞こえよりずっと重い。多くの人は、揺るぎを失うのが岸を持たぬせいではない。流されてから、岸はそもそも自分のものではなかった、あるいはそれを必要とするのは弱みだと決めてしまうせいである。この教えは、その流れをふつうの天気として扱う。あなたは運ばれた。運ばれていてよいのだ。ただ一つの指示は小さい。岸へ向き直ることである。完璧にではなく、一度にではなく。ただ、戻る方向へ。裁きではなく許しをくれる考え方は稀であり、それが不易の特有の調子である。優しくもあり、厳しくもあり、残酷ではない。
変と不変は、一つの事の裏表である
変易をも不易をも説く古い書だから、矛盾ではないかと問う人がいる。そうではない。変わるのは相であり、変わらぬのは「変わる」という事実そのものと、人の心のなかで一度決めたもののいくらかである。川を思いなよ。水は日々違うが、川床は下からしっかり受けている。床が動かぬからこそ、水は安心して流れ、遠くまで流れ、行くべき所へ達する。この言葉には両方の層が重ねてある。動くものを見る目を養い、その岸の一区画をあなたに取っておく。両方を分かれば、人は波に眩まされにくく、また岸で硬く死にもしにくい。動くべき時は動き、留まるべき時は留まり、どちらが水でどちらが岸かが分かる。そうして初めて、慌てず、また頑なでもなく、いつ手を開き、いつ握るかが分かる。
両方を持つ美しさは、どちらも腐らぬことである。不変のない変は混沌であり、あなたは最後の波だった人になる。変のない不変は硬直であり、水の去った岸、水の去ったものになる。二つは、主語と述語が文に要るように、互いに要る。古い文が不易を変易の後に置いたのは、まさにこの理由である。すべてが流れると腹の底で受け入れて初めて、動かぬあの岸がどれほど貴いかが分かり、流れる世の中で、どうして自分のために流れぬ地面を一区画残すべきかが分かるのだ。
その変わらぬものは、人への岸でもある
不易は自分だけでなく、近くの人をも守る。気分が安定し、言ったことが信じられる人は、そのものとして人の岸である。友だちはあなたが急に顔を翻さぬと知り、子どもは怒っても底があると知り、仲間はあなたの請けたことが逃げぬと知る。自分の変わらぬものを守ることで、周りの人に予測できる安らぎを渡すことになり、その安らぎは貴い。関係のいちばん安い土台である。多くの人が疲れるのは、傍にいる者がいつでも変わりうるからであり、笑顔さえ不確かさを帯びているからである。あなたが動かぬ岩でいてくれれば、周りの人はゆっくり、あなたの傍に舟を繋ぐ勇気を出し、ここでしばらく休む勇気を出す。あなたが皆の岸である必要はない。それは重すぎる。知っていて届く数人の岸になれば、それでよい。自分の変わらぬものを守ることは、それ自体優しさである。誰かを縛るのでなく、恐れず近づける座標をくれるのだ。この言葉が不易を変易の後に置いたのは、全体の意味である。まずすべてが流れると知り、それからこそ、動かぬあの岸がどれほど金いろに輝くかが分かり、流れる世の中で、どうして自分のために流れぬ場所を残すべきかが分かる。
結びに、不易がくれるのは揺るぎではなく、足場である。昔の場所で止まれと言うのではない。ただ、動く間も、慌てぬ座標を心に一つ持てと言う。古い字はこの三層を重ねた。天地は広く、変化は多くても、あなたにはやはり、軽々しく渡さぬ、自分のものをいくらか残せるのだと言いたかったのである。そのものは目立たず、しかし心の消えぬ灯である。外がどれほど暗くても、振り返ってそれを見れば、家はやはりあると知れる。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。