なぜやり直すたび、「今度こそうまくいかなきゃ」と背負ってしまうのか
DustEcho編集部

もう一度やり直そうという気持ちが湧く——方向転換、人と近づき直す、何年も置き去りにした絵をまた描く。でも「今度こそ」という言葉が出た途端、すぐ後から「今度もうまくいかなかったら」が付いてくる。その一言で、あなたは一時停止されたようになり、第一歩がどこだったかも思い出せなくなる。
ただもう一度試したかっただけなのに、どうして皆の前で判決を出すような重さになったのか。
動きたくないのではない。今回は太多的ものがくくりつけられているのだ
前の何回かは、失敗しても払って立ち上がればよかった。でも今回は違う。いつの間にか「やり直し」と「自分という人間はどうなのか」が一本の紐で結ばれている。うまくいけば、ようやくまともな自分だと証明できる。失敗すれば、また一枚「私はちょっと足りない」という札が増える。
だから恐れているのはやり直すことそのものではない。その裏にある判決の列だ。背負っているリュックにはもう計画は入っていない。他者がどう見るか、前にしくじった影、そして洗い流さねばならない自分自身が詰まっている。
「やり直し」を最終判決だと読みがちな理由
知らないうちに身につく癖がある。うまくいかなかった時、それは「条件も方法も時期も合わなかった」ではなく「あなたには無理だ」と読まれる。やがてあなたも自分をそう読むようになる。
だから新しい始まりは、こっそり「最後のチャンス」へと格上げされる。うまくいけば救済、失敗すれば決定。でも人生に決定的な判決はめったにない。それは何度も開き直す下書きのようなもので、何度も修正し、どの版も結論にはならない。
荷物が重いほど、足は上がらなくなる
気づいているかもしれない。今回は絶対にうまくいかせなければ、と考えるほど、動きは固くなる。デート前に開口一番を何度も練習して、会ってみればまともな一言も出てこない。転職したくて履歴書を八十回書き直し、それでも見せられない気がする。
能力が落ちたわけではない。リュックが重すぎるのだ。一歩ごとに「これでいいか、十分か、加点になるか」と問い、注意力も体力も全部荷物の計量に使って、歩く分が残らない。負けたくないほど、自分の手でしくじる。そのしくじりが、またリュックに重みを足す。
「やり直し」をふつうの試みへ格下げする
地味だが効くやり方がある。自分に「やり直す」と言う前に、一段格を下げて「人生の立て直し」から「ちょっとだけ口をつけてみる」にする。
「ここから運命を書き換える」ではなく、「今週その集まりに顔を出して、居心地が悪ければ帰る」。「この計画が成否を分ける」ではなく、「二週間試して、合わなければ調整する」。それが期末試験ではなく小さな実験なら、リュックの中の判決は軽くなり、足が動く。
一角を下ろせば、道は歩ける
出発する前に「今度こそうまくいかなければならない」という保証書を書く必要はない。やり直しで一番誤解されているのは、重くなければ意味がないと思い込むことだ。
せめてこれを試してみては。リュックの一角を下ろし、「自分を証明する」はその場に置いていく。軽い自分で歩き、二歩進んで二歩見る。道は、あらかじめ分かってから歩くものではない。この道のりで、あなたは誰かに答案を出す義務などない。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。