なぜ私は逃げ道を残して、かえって本道を台無しにするのか
DustEcho編集部

何かをもう一度始めようと決めた。運動でも、言語でも、生き方でも。計画はしっかり立てたのに、こっそり逃げ道も残している。だめなら元のままに戻ればいい、持たなければ退く場所はある、と。
責任あるように聞こえる。自分に安全網を残すことで、何が悪かろう。
しかしすぐに気づく。その逃げ道は身に着けた小さなパラシュートだ。重くないか。重い。途中まで登って、手が無意識にまだあるか確かめる。心が半分に裂ける。さらにまずいのは、落ちても誰かが受けとめてくれると知っているから、かえって落ちることを恐れなくなる点だ。だから傘なしの時よりもだらしなく登り、足取りも乱れる。
逃げ道はもともと、あなたが踏み出せるようにとのものだった。しかしそれはしばしば撤退の通路になる。本当に辛い時、あなたは歯を食いしばって越えるのではなく、手近にすべり落ちる。下に受けとめ手がいるからね。自分は底を尽くしていると思っていても、いつでも退ける穴を掘っているだけだ。
もう一層ある。逃げ道を残す人は、本当に打ち込めないことが多い。新しい計画に八割の力を入れ、残り二割を古い道にかけている。結果、両方とも落ち着かない。新しいものは育たず、古いものも少しずつ緩む。あなたは二重の保険を得たのではなく、自分を二つに割ったのだ。
別のやり方を試そう。出発前に、最悪どうなるか、だめならどう収めるかをよく考え、分かったらそれを置く。準備しないのではない。準備したらずっと握らないことだ。自分に言い聞かせる。この旅はまず全力で歩く、退路は本当に必要になってから振り返ればいい、と。
打ち込むことは無謀ではない。その事に真剣に向き合う機会をやることだ。いつでも撤退の構えをやめれば、かえって安定して歩ける。あなたの重みが、目の前の一歩にすべて乗るからだ。
逃げ道を残さないのは賭けすぎかと心配する人もいる。実は決め手は、逃げ道を心の中で考えておくだけにするか、常に杖がわりに手に持つかだ。前者は大人として持つべき予案であり、後者はまだ出発もせぬに放棄を練習しているようなものだ。
小さな実験をしてみてほしい。次に何かを始める時、最初の三日はわざとその退路に関わるものを開かない。古い求人ソフトを見ない、古い習慣の記録をめくらない。そうすれば三日の間、以前より集中している自分に気づくはずだ。難関が本当に来てから、退るか決めればいい。その時の退却は覚悟の選択であり、習慣的な一滑りではない。
退路がもう手元にないと、かえって去ることを少なく考えることに気づくかもしれない。心が定まれば足取りはしっかりし、逃げ出したい難も、一歩ずつ越えられる坎になる。予備はやはり心の中にいる。ただ、いるべき場所、引出しの中に戻っただけだ。持ちすぎて出発するのは安定ではなく重みだ。軽く装ってこそ道は遠く行く。あなたが安全を要らぬわけではない。要るのは自ら対処できると知る安全であり、いつでも逃げる構えではない。撤退の考えを荷棚に下ろせば、手が空き、本当に行きたい場所をつかめる。それがもう一度始めるべき姿だ。
もう退路を杖がわりに手元にぶら下げるのはやめよう。それは考え抜いた時にはあっていいが、每一步であなたを後ろへ引くものではない。下ろせば、目の前の道が見え、自分の方向も歩ける。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。