なぜ良いことが起きると私は慌てるのか
DustEcho編集部

昇進の知らせが届いた日、あなたの最初の反応は喜びではなく、きっと「何か間違いだろう」でした。友人が真剣にあなたを褒めてくれても、あなたは笑って受け流し、振り返ってから「私にそんな言葉がふさわしいだろうか」と考える。誰かが特別に優しくしてくれたとき、あなたは安心するのではなく、先に慌てます。自分が何かを借りているのではないか、すぐに返さなければという焦りです。良いことが自分に起きるほうが、悪いことが起きるよりも不安になる。この「私は良いものにふさわしくない」という感覚は、心理学では配当感の低さと呼ばれます。心の中にある「私はそれだけ価値があるか」という秤が、いつしか静かに傾いてしまったということです。
配当感とは、心の中の「私はそれだけ価値があるか」という秤のこと
誰の心にも、自分が良いものにふさわしいかを量る見えない秤があります。配当感が高い人は、良いことが起きるとそれを受け取り、「そうだ、私はふさわしい」と思います。配当感が低い人は、良いことが起きるとまず身震いし、「これはきっと間違いだ」と思います。問題は、あなたが本当にふさわしいかどうかではありません。その秤が最初から傾いていることです。それはあなたを「ふさわしくない」とみなすのが当たり前になっているので、どんな親切や幸運や褒め言葉も、まず異常なデータとして扱われ、安心する前に理由をつけて説明されなければならないのです。
これは周りの人にはほとんど見えない種類の疲れです。外から見ればあなたの暮らしは順調に、ときには羨ましくさえ見えるかもしれません。でも内側では、もらった贈り物はすべて借金になり、褒め言葉はかわすものになり、降り注いだ幸運はいつ修正されるかと待つものになります。それは謙遜ではありません。喜びを疑いに変えてしまう裏で動く仕組みを抱えているだけです。
人が無条件に優しくしてくるとき、なぜ「私がふさわしくない」と思うのか?
それはずっと昔に、愛されたり認められたりすることが条件付きだと学んだからです。成績が良ければ褒められ、大人しくしていれば可愛がられ、言うことを聞けば安全でした。あなたはゆっくりと一つの論理を作りました。良いものはただでは来ない、それは「よくできた」ことと引き換えになるのだと。だから大人になって、誰かが理由もなく優しくしてくれると、あなたの頭の中はすぐに「私は何を支払ってこれを手に入れたのか」を探し始めます。見つからなければ、あなたは慌て、自分がふさわしくないのだ、あるいは相手が人違いをしているのだと思います。
これは、いつも人を喜ばせようとしてしまう理由について書かれた記事の根っこと同じです。断れないこと、誰かを満足させたいという絶えない衝動です。中核にあるのは、あなたが「成果」と「受け入れ」を引き換えることに慣れすぎてしまったという点です。引き換えなしで手に入れるとき、どう受け取っていいかわからなくなります。手の置き場所がわからなくなるのです。
たいていの場合、物語は「良いものは私の順番ではない」から始まる
多くの人の配当感は、「いつも最後の一人」「しっかり者の一人」「簡単に見過ごされる一人」という役割のなかでゆっくり崩れていきます。子どものころ、あなたは一番良いものを譲ることを覚えました。注目をうるさい兄弟に譲り、機会を「もっと必要としている人」に譲りました。欲しくなかったのではありません。あなたはただ、「私は争わない、私は大丈夫」と最初に言うことを覚えたのです。その台本を十分に長く演じていると、あなた自身もそれを信じるようになります。良いものは他人のもの、私の仕事は拍手をすることだと。
だから大人になって本当に良いことが訪れたとき、あなたの最初の反応は受け取ることではなく、譲ることです。相手によりふさわしい理由をあなた自身が探してあげるのです。あなたは消えることをあまりにも上手に練習したので、そこにいること自体が間違いに感じるようになったのです。
良いことが起きる直前に、なぜ自分で自分を台無しにするのか?
「見慣れた苦しみ」は「見知らぬ良いこと」よりも安全だからです。逆説的に聞こえますが、脳は予測できるものを好みます。悪いことは知っています。良いことは未知で、失うかもしれないものです。だから無意識のうちに、あなたは小さな動きをします。先延ばしをして肝心なことを台無しにし、早めに距離を置き、わざとあらを探します。状況を、あなたの知っている不安の中に引き戻すためです。これは、仕事で頑張る自分を見られるのが恥ずかしい理由について書かれた記事と同じ仲間です。あなたが恐れているのは努力そのものではなく、「本気になったのに手に入らなかった」という落差です。だからあなたは自分を後ろに引くのです。少なくとも「台無しにする」ことは知った結末で、コントロールできるからです。
このパターンに気づいてもそれが消えるわけではありませんが、力の一部を奪うことはできます。良い瞬間を自分で壊したい衝動を感じたら、名前をつけられます。「私は本当に不注意なのではない、知っている物語に戻ろうとしているのだ」と。名前をつけることは、壁に初めて入るひびです。
「私はふさわしい」を結論ではなく、小さな練習にする
配当感は、悟ったからといって手に入るものではありません。練習して育てるものです。ごく小さく始められます。
- 誰かが褒めてくれたとき、すぐに「いいえいいえ」と言わず、「ありがとう」を最後まで言い切る
- 贈り物や助けを受けるとき、すぐに返そうとせず、まずは受け取っていていい
- また逃げ出したい衝動に気づいたら、立ち止まって問いかける。私は本当にこれが欲しくないのか、それとももらうことに慣れていないだけか
- 良いことに条件をつけようとする瞬間、例えば「明日二倍働けば受け取っていい」という取引を、一度は条件なしでそのまま受け取る
ゆっくりと、人に自分の世話をさせることを学ぶのは思ったほど難しくないと気づき、世話されたい、誰かに受け止めてほしいと思うことは恥ずかしいことではないと気づきます。あなたはただ、あまりにも長く「もらう」側に立つことを許してこなかっただけです。
配当感が警報を鳴らしているいくつかのサインを挙げます。
- 褒められると、反射的に理由をつけて自分を下げる
- 贈り物をもらうほうがあげるより不安で、すぐにお返しを探す
- 誰かが助けを申し出たとき、最初の言葉が「大丈夫です」になる
- 良い知らせに「間違いではないか」と考える
- 関係のなかで、自分がいつも「借りている」側だと感じる
これらのいくつかが身に覚えがあるなら、あなたが壊れているわけではありません。あなたは、選ぶ権利ができるずっと前に、他の誰かに秤を調整された人なのです。
それでも良いことが怖いとき、具体的にどうすればいいのか?
頭が主張するよりもずっと小さく始めてください。急に自分が素晴らしいと信じる必要はありません。必要なのは、「入れてもらおう」という一度の正直な瞬間です。慌てが来たら、心の中でこう言えます。「これは古い秤が話しているのであって、真実ではない」と。その一言だけで何十年も直るわけではありませんが、隙間が生まれます。その隙間のなかで、言い訳なしに受け取ることを選べるのです。
周りの人があなたのために現れてくれるとき、いつも他人の世話をするのに誰も自分の世話をしてくれないという構図こそ、見直す価値のあるパターンかもしれないと考えてみてください。配当感は、与えずに受け取る人になることではありません。あなたは与えることだけのために存在していたのではないと気づくことです。
配当感が低いからといって、あなたが本当に価値がないわけではありません。あなたの秤を他の誰かが傾けたということです。良い知らせは、秤はまた水平に戻せるということです。一句の褒め言葉を落ち着いて受け止めることから、代償を払わずに一度だけ素直に喜ぶことを許すことから始まります。あなたは良いものにふさわしいのです。それはあなたが手に入れたからではなく、あなたがそこにいるからです。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。