なぜ他人が辛い時、私は何も感じないのか
DustEcho編集部

友だちから泣きながら電話が来る。あなたはうんうんと慰めるが、切った後は真っ白だ。無関心なのではない——「聞いてるよ」が口を出た瞬間、中でそれを何も受け止めていなかったのだ。しばらくして少し慌てる。どうして私はこんなに冷たいんだろうと。
あなたは冷たくない。他人を受信するアンテナが、あまりに長く錆びついているだけだ。
とっくに「まず他人を受け止める」に自分を合わせていた
振り返ってみてほしい。長いあいだ、あなたは自分を「世話する側」の位置に置いていなかっただろうか。誰かの顔色が変わると真っ先に振り向き、声のトーンが下がるとなだめに行き、自分の感情は後回し、さらに後回しにしていた。
ゆっくりと、あなたの受信機は席を譲った。他人を先に感知することに慣れ、自分の知覚は隅へ退き、それと一緒に他人の感情への反応も波を立てなくなった。人をケアしているつもりで、実は「私も影響を受ける」という線をこっそり緩めていたのだ。
あまりに長くオフにして、錆びついた
能力は長く使わなければ鈍る。他人の雨を何度も自分に被せ、やがて体は賢くなった。受け止めるな、受ければ溺れるだけだと。だからこっそりアンテナを別のチャンネルへ回し、誰かの悲しみが届いても、あなたの端にはノイズしか残らない。
これは冷酷ではない。過負荷のあとの自動遮断だ。感じたくないのではない。感じるスイッチをあなた自身が「オフ」に半田付けしたのだ。システムは「このまま点けっぱなしでは焼き切れる」と判断し、代わりにプラグを抜いた。あとで感じる「虚しさ」は、実は短絡保護が働いたあとの静けさにすぎない。
「どうして私はこんなに冷たい」という慌てが、さらに疲らす
一番苦しいのは事後の自分裁きだ。あなたは責める。「どうして悲しいこともできないんだ」と。そう思えば思うほど冷たい自分を感じ、他人の感情に近づく勇気がなくなり——隔たりはますます深くなる。
その自己告発そのものが、あなたを遠ざけている。あなたの恐れる「冷たさ」は、自分で怖がって作ったものだ。「私はこんなに冷酷だ」という札を貼ることで、また一歩遠ざかる。その札は真実ではなく、過負荷のあとの一時的な感覚消失にすぎない。
「無関心」とは別の話だ
これを分けておかねばならない。無関心は能動的な選択だ。どうでもいい、私に関係ないと。でもあなたのは受動的な遮断だ。かつては感じすぎた。頻繁に、強く感じすぎたから、システムが守るためにプラグを抜いたのだ。
一方は「したくない」、もう一方は「しすぎたから、まず止めた」だ。性質はまったく違う。二つを混ぜるからこそ、感じないのにその感じなさを自分で責めるという羽目になる——どちらの端も解かない二重の消耗だ。
まずはアンテナを自分へ戻す
他人のことに反応しろと無理に急かしてはいけない。錆びついたアンテナは、強くねじると折れる。
いちばん小さなところから始めよう。今日、心がわずかに動いたことは何か、ほんの少しでも、まずそれを認める。自分の端の信号を少し回復させれば、他人の雨もまた届くようになる。あなたは冷たくなどなかった。ただ、長く自分を濡らすことを許さなかっただけだ。アンテナがゆっくり錆びを落とし、元の周波数へ戻るにつれ、あるありふれた午後に、誰かの何気ない一言で胸がほんのり痛むはずだ——それは弱くなったからではない。あなたが戻ってきたのだ。
急がなくていい。錆は日々で付き、日々で落ちる。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。