なぜ自分の感情に名前をつけられないのか
DustEcho編集部

友だちに「最近どう」と聞かれて、あなたは「まあまあ」と答える。適当なのではない。本当にそれ以上が出てこないのだ。今日は会議が三つあったとか、電車が混んでいたとか、夕食を適当に済ませたとかは言える。でも胸の奥の、くすんだ何かには色がつけられない。自分が「なんだかおかしい」とは分かるのに、具体的に聞かれると言葉の辞書が消え、ただぼんやりとした曖昧だけが残る。
鈍っているのではない、名づけられないだけ
この状態を多くの人は鈍磨だと思う。「何も感じなくなったみたい」。でも鈍磨は空っぽのことだ。あなたの場合は倉庫に箱がいっぱい詰まっているのに、ラベルを貼る機械をなくしたようなものだ。感情はちゃんとある。ただ小さい頃から、それに名前をつける道が静かに廃れていただけだ。悲しみを表に出せば「そんなことで泣くなんて」と返され、家では誰も気持ちを本気で相手にしてくれなかったのかもしれない。あなたは幼いうちに「元気だよ」と答えてすべての扉を閉めることを覚え、閉め続けるうちに自分でも扉の裏が見えなくなった。
体はずっと覚えていた
皮肉なことに、体だけは忘れなかった。胸の圧迫、首の後ろの緊張、胃がそっと握られる感じ。これらは言葉より何歩も早くやってくる。あなたは「何も感じていない」と思っているが、感覚はただ体という言語に切り替わっただけで、あなたは言葉しか読めない。だからこそ、やるべきことを片づけ、誰にも邪魔されずにいながら、理由もなく疲れ、天井を見つめて涙が出そうになることがある。体が、あなたの口から出なかった「つらい」という文の証人になっているのだ。
感覚を急いで物語に訳さないで
名づける力を取り戻すのに、自分を責めたてる必要はない。逆に「いったい何がどうした」と詰め寄るほど、もっともらしくてまったく関係ない脚本をでっち上げる。「疲れ」を失恋だと言い、「不安」を仕事への不満だと言ってしまう。もっとよいやり方は、恥ずかしいほど単純だ。何かが湧き上がったとき、説明も評価もせず、ただ「今、これ」に数秒留まる。名前はいらない。感覚は言葉になってからでなければ存在を許されないわけではない。置いておけば、それは自分で輪郭を現す。いつかあなたはごく自然に言えるようになる。私は怒っているんじゃない、がっかりしているのだ、と。寂しいんだ、わがままを言っているんじゃないのだ、と。
言葉の辞書は一日ずつ戻る
近道はない。今日も言えなくても自分を責めないでほしい。あなたは子どもの頃に置いた言語を、もう一度拾い直しているだけだ。次に胸が締め付けられたとき、「ここが、少しきつい」とだけ言ってみてほしい。正式な名前を求めなくていい。言葉は、無理に呼び戻そうとしなくなった頃に、ふっと戻ってくる。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。