どうして前に進んでいるのに、それが自分の行きたい場所だと感じないのか
DustEcho編集部

こんな瞬間を抱いたことはありませんか。道理でしたら安心していていいはずのものを手に入れた後、静まると、想像していたあの「やっと着いた」という安堵はどこにもなく、むしろ何となく空っぽになっている。悲しいわけでもなく、どこかおかしいとも言えない。ただ漠然と感じるのです。この道、ずっと急いできたのに、着いた場所は本当に私の行きたかったところではない、と。
あの「〜すべき」は、どうやってあなたの中に住み着いたか
小さい頃、誰かがすでにあなたの目標を並べていました。成績は良く、仕事は安定して、一定の年齢できちんと家庭を持ち、周りより少し早く家を買うこと。それらは最初は「他人の願い」でしたが、何度も言われるうちに、あなた自身の「デフォルト」になっていきました。本当に自分が望んだかどうか、訊ねたことすらなかったかもしれません。ただ、そうしないと何かがおかしい、と感じるだけでした。
あの「〜すべき」はとても静かです。あなたを無理に迫ることはしませんが、環境音のようにずっと鳴り響いています。大人になる頃には、もう誰かに言ってもらう必要さえなく、自分で飛び出してきて物事を順位付けします。何を追う価値があるか、何が「人生に求められる姿」なのか、と。
あなたが追っているのは、たいてい他人のチェックリスト
すると不思議なことが起きます。頑張っている姿はあなたそのものに見えるのに、その頑張りの方向は借り物だということです。
まるでナビが誰か他の人の目的地に設定されていたかのようです——あなたはそれに従って曲がり、加速し、遠回りし、すべて問題なく進みます。しかし終点が表示されたとき、はっとして立ち止まります。この場所、本当に私が来たかったところだろうか? でもその頃にはもうずっと走っていて、ガソリンも使ってしまった。切り返すのは難しい。だから「着いたからいいか」と自分に言い聞かせます。
多くの人の疲れは、頑張りが足りないことから来るのではありません。ずっと他人のチェックリストのために働き、自分のチェックリストのためにまともに一歩も踏み出したことがないことから来るのです。
着いてみて初めて、鍵が自分の手にないと気づく
もっと静かな喪失があります。外側の目印は次々と付けられていくのに、内側の「私はこれがしたい」は追いついてこないのです。
昇進はした。でもそれが本当に自分の望んだことなのか、「この年齢になら当然手に入れるべきもの」なのか、言葉にできない。安定はした。でも夜ふと空っぽを感じることがあり、まるで内装の整った、しかし自分のものではない家に住んでいるようです。他人から見れば「人生の勝者」。あなた自身は知っている、ドアの鍵は実は自分の手になく——ただ住ませてもらっているだけだと。
この空っぽは、「わがままを言わない」と誤解されやすい。でも違います。わがままを言わないのはもっと欲しいからで、あなたは目の前のものがそもそも自分のものかどうか、不確かなのです。
わがままを言っているのではなく、ただ長いこと自分に訊ねていなかっただけ
問題はたいてい「得たものが少なすぎる」ことではなく、「確かめたことが少なすぎる」ことにあります。
私たちは外の物差しで自分を量ることに慣れすぎています。着いたか、追いついたか、見栄えがいいか。物差しはずっと「進捗」を量っているのに、「心」を量ったことはありません。やがて「私は何がしたいのか」ということさえ不馴れになり、立ち止まって慌てないよう、他人の脚本で方向を繋ぎ合わせるしかなくなります。
だからあの空っぽは大げさなのではありません。方向感覚を借りた人が、あなたにこう伝えているのです。ずっと長いこと、自分でルートを確認していなかった、と。
まずはナビを、自分の手に戻してみてもいい
今の生活をひっくり返す必要も、明日にでも劇的な変化を起こす必要もありません。小さな動き一つから始めればいいのです。次に「みんながそうすべきだ」と思うことが浮かんだとき、三秒止まって自分に問いかけてみる——これは私が望んだことか、それとも他人が望むべきだと言ったことか、と。
毎回答えを出す必要はありません。見分け始めるだけで、ナビを他人の手から自分の手へ、少しずつ戻し始めているのです。目的地がどこかを今すぐ知る必要はありません。ただ確かめればいい。この先の道が、私が歩きたい道だ、と。
結局、「なんかうまく生きていない」と感じるのは、たいていあなたが持っているものが少なすぎるからではなく、これらが自分で選んだのか、それとも誰かが代わりに選んだのかを確かめるのをあまりに長く怠ってきたからです。次にまた「喜ぶべき」節目に着いて空っぽを感じたら、急いで笑うのをやめて、そっと問いかけてみてもいい。この目的地を私のナビに打ち込んだのは、一体誰なんだ、と。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。