なぜ私はいつも自分の決断を疑うのか
DustEcho編集部

カートで「注文を確定」を押した直後、なぜか安心できなくなる——あの色にするんじゃなかった? あっちの店の方が得だった? さっきまでこんなに確信があったのに、確定した瞬間、その確信はふっと消える。
買い物だけではない。転職も、別れも、誘いを引き受けることも、週末どこへ行くか決めることさえ、自分で決めた時には必ず後から声がする。本当にそれでいい? 間違えてない?
「もう一度考えよう」という声は、決断のあとにしか来ない
面白いことに、この声は決める前にはほとんど現れない。迷いはあっても、いざ踏ん切りをつける時は意外とすっきりしている。問題は「あと」にある。決断が事実になると、遅れて現れる審査員が出勤するのだ。
そいつは選んだ道をもう一度広げ、一つずつ問う。本当に考え抜いたか? もう一つの選択肢の方がよかったのでは? こうして閉じたはずのことが、またテーブルの上に戻される。あなたは選び直しているのではない。後から振り返る視点で、さっきの自分を裁いているだけだ。
あなたが疑っているのは、たいてい決断そのものではない
その繰り返しを眺めると、一つの癖が見える。あなたを不安にするのは「AかBか」という問いそのものではなく、「そもそも自分でこれを決める資格があるのか」ということだ。
小さい頃から「何がしたい?」と真剣に聞かれたことがない人もいる。大きなことは誰かが決め、小さなことでも「まだ分からない」と言われた。そうなると、自分で決めることそのものが馴染みのない、怪しいものになる。だから選んだ瞬間、その声は反射的に飛び出す。あなたが? 本当に?
それが見ているのは選択の正誤ではなく、「よくも自分で選んだな」という事実への反応だ。
決断が大きいほど、それが「自分のもの」だと信じられない
逆説的なのは、小さな決断は許せるのに、人生を形作る大きな決断ほど片付けにくいことだ。
重みが大きく見え、しかも自分の判断をもう信じていないから、無意識に外の証拠を探す——友人にも聞き、投稿も読み、「他人はどうするか」を確認する。いざ決めた時の感覚は「私が選んだ」ではなく「みんなが大丈夫と言っていたから、きっと大丈夫だろう」になる。
でもうまくいかなくなった時、誰も代わりには背負ってくれない。やはり自分が背負う。ぐるぐると回ったあげく、結局一つも覚えていないことがある。決断したのは「自分」だったということだ。
あなたが怖いのは、「間違えたら自分で受け止めなければならない」こと
その疑いの下には、とても現実的な怖れがある。間違えたら、その代償を一人で飲み込むのだと。
私たちは小さい頃、「間違えれば叱られる」と教え込まれたが、「間違いもまた情報になり得る」と教わることは少ない。だから決断をこっそり「判決」に格上げしてしまう。一度道を踏み外せば、それは「あなたはダメな人間だ」を意味する。一つの選択を自分の価値への評決と同義にしてしまえば、どの決断も軽く手を出せるものではなくなる。
でも過去の「間違えた」ことを振り返ると、たいてい想像したほどの破滅ではなかった。それは通じなかった道を示す道標のようなもので、あなたの人生が終わったと押印するものではない。
決断を、一度の練習だと思ってみてもいい
いきなり「決断力のある人」になれとは言わない。まずは小さな一歩から。決めてから、すぐに「もう一つ方がよかったか」と確認するのをこらえて、半日そのままにしておく。その不安のほとんどが習慣であって、真実ではないと気づくはずだ。
その審査員に具体的な仕事を与えてもいい。決める前だけ考え、決めたあとは——その時点で知らなかった新しい事実が現れない限り——再審しない。ぐるぐらせる時間を決まった窓の中に閉じ込めれば、それは24時間つきまとう雑音ではなくなる。
結局、自分の決断を疑うのは、選ぶのが下手だからではなく、選んだのが「自分」だと信じることにまだ慣れていないからだ。次にその声が現れた時、そっとこう返してみてはどうか。私が選んだ。まずはそれがどこへ連れていくか、見てみよう。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。