なぜ私はつい自分と他人を比べてしまうのか
DustEcho編集部

あの投稿を見て、心のどこかが沈む
夜遅くにスマホを眺めていて、親指が昔の同級生の投稿で止まる――昇進、新しい家、家族での旅行、写真は申し分ない日光。指を滑らせて見送ると、心のどこかが少しだけ沈む。嫉妬というほどでもない。ただ「また遅れてるな」という鈍い感覚、誰かに膝の裏をそっと押されたような。
それが本人の選んで見せた版だって、あなたはよく分かっている。今日は悪くなかったことも――夕飯はまあまあだったし、猫が手をすりよった。でもその小さな沈みは、止められない。
自分の工事現場を、相手の展示場に突き合わせる
比べることは狡猾だ。なぜなら「客観的」を装っているからだ。あなたは正直に評価していると思う。彼にはあって、私にはない。彼は着いたのに、私はまだだ。でも気づかないのは、天秤に載せている両側が、そもそも同じ種類のものではないということだ。
あなたは自分の「工事現場」を、誰かの「展示場」に突き合わせている。
あなたが見ているのは、相手の人生からレタッチされた数コマ――昇進の喜び、新居の明るさ、旅のいちばんいい光。それを手に取って、自分の仕上がっていない荒削りな殻を計ろうとする。残業の乱れ、まだ払えていない請求書、夜の言葉にならない虚しさ。一方は相手が厳選したハイライト、もう一方はあなたの全てで、ほつれた日常だ。同じ秤に載せれば、負けるようにできている。秤は最初から傾いていたのだ。
しかもその秤の目盛りは動き続ける
しかも、その秤の目盛りは動き続ける。
この同級生にやっと追いついたと思えば、次の誰かが現れる。いつも平静で、何でもうまくいっているように見える人。卒業して二年で世界を旅している元同僚。心配そうな顔を見せず、いつも笑顔だけを投稿する見知らぬ人。比べることは「これで十分」という結論をくれない。次に追うべき目標をくれるだけだ。だからそれはあなたを安心させるためのものではなく、いつも「ひと息足りない」状態に置くためのものだ。比べに勝てばほっとすると思うかもしれないが、勝ってもただ目盛りがもう一段上がるだけだ。
だから問題はたいてい、「私が相手より劣っている」ことではない。「比べられないものを、ひとつの秤に無理やり載せている」ことだ。人の丸ごとの一日――乱れも、引っかかりも、言葉にできないつらさも――と、相手が見せるために選んだ数コマとでは、もともと次元が違う。後者をもって前者を裁けば、負けは最初から決まっている結末だ。
比べるのをやめなくていい、まずは気づく
比べることを完全に「やめる」と誓うのはお勧めしない。それは非現実だし、誰にもできない。他人がうまくいっているのを見て、心がちょっと引っ張られるのは、いちばん当たり前のことだ。それを無理に押し込めれば、別の自己攻撃になるだけだ。「また比べてる、私ってだめだ」と。
もっと軽いやり方は、次にあの沈みが来たとき、それと気づくことだ。
心の中で静かに言う。「あ、また自分の工事現場を誰かの展示場に突き合わせてるな」と。それだけ。批判はせず、ただ名づける。そうすると、その沈みが急に軽くなったように感じる――なぜならそれを見たからだ。暗がりの「やっぱり私なんて足りない」ではなく、光の当たる場所で指させる小さな動きになる。レタッチされた写真が、一瞬あなたの目を奪っただけ。それだけのことだ。あなた全体が崩れたわけではない。
他人の人生は、決してあなたの物差しではない
他人の人生は、決してあなたの物差しではない。それは相手が渡してくれた、選りすぐった写真に過ぎない――きれいなのは本当だけれど、あなたの日々の深さは計れない。見送って、あなたの道を歩き続ければいい。誰かに勝たなければ、自分のいい一日を過ごす資格はないわけではない。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。