なぜ私は「どれだけ産み出したか」で自分の値打ちを測るのか
DustEcho編集部

ある日、熱で休み、ベッドで同僚がグループチャットに進捗を上げるのを見た。ふとこんな思いが浮いた。今日私は何も産み出さなかった、では今日の私は「何の値打ち」があるのかと。自分でも驚いた。私は「どれだけ作ったか」で「存在していいか」に点数をつけていたのだ。
私の価値表には「産出」の欄しかない
振り返ると、私の自己評価表は実に薄い。欄は一つだけ。今日何を産み出したか。書き終え、成し遂げ、納めた。その枠が埋まって、初めてその日が「立った」と感じる。何も出なかった日は、家族といたり散歩したり、ただ気持ちを少し落ち着かせただけでも、その枠は空のままで、私は無効の切符のようだ。
一番まずいのは、その表に「人」の欄がないことだ。私は「生きている人」として点数をされるのではなく、「今日どれだけ荷を出した機械」として点数をされる。機械が一日止まれば損だが、人が一日休むのは、もともと日々の一部であるはずだ。
産出が安心の源になった
なぜ価値を産出に結びつけるのか、ようやく見えた。産出は見え、納められる。納めれば誰かが頷く。頷かれれば、しばし安心だ。答えの出せない「私とは誰か」に比べ、「何をしたか」にはせめて答えがある。だから私は答えの束で、自分を「まあ大丈夫」の位置に留める。
でもこの安心は借り物だ。毎日更料が要る。今日の納品が明日の不安をカバーするわけではない。産出と引き換えに安心を得れば得るほど、止める勇気がなくなる。なぜなら止めた瞬間、下の「私はそもそも価値があるか」が、やはり空のまま現れるからだ。
「産出なし」が「無用」になる時
その等式で一番人を傷つけるのは、「産出なし」と「無用」を等号で結んだことだ。そうなると休息はサボりになり、放心は無駄になり、悲しみでさえ「これは役に立つか」と尋ねる。人の豊かさ、人を慰め、静かに聴き、肝心な時にあるじめに踏みとどまる。そうした産出ではない部分は、私の表では全部零で、まるで存在しない。
一度、友達が落ち込み、私は丸一晩付き添い、何の「生産的」なこともしなかった。帰り道、私はむしろ慌てた。今日は無駄だったかと。でもそれこそが、私が久しくこんなに「役に立った」夜だったのに。
自分にいくつか欄を足す
その表を厚くしてみた。産出の傍らに、無理にいくつか欄を足した。「自分を労れたか」「誰かによかったか」「柔らかくなってよかったか」と。初めは違和感があった。その欄には数字がなく、提出するものがない。でも足し続けると、数字のないその欄こそが、産出のない日にも私を立たせてくれると分かった。
産出を大事にしなくなったわけではない。産出は良い。達成感をくれる。ただそれが唯一の欄であってはならない。人が価値があるかは、今日の出荷リストで決まるのではない。あなたの存在そのものが既に立っている。誰かの判を要しない。
一度だけ秤を下ろす
もしあなたもそうなら、機械を急いで壊さないで。小さく始めよう。産出のない夕方を一つ選び、後回しの仕事を何もせず、ただ生きる。そして眠る前、自分に言う。「今日は何も産まなかった。でもちゃんと生きた。それで十分だ」と。その言葉は軽い。でもそれは初めて、あなたの「人」の欄に数字を埋めた瞬間なのだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。