過ぎと不足のあいだ、ちょうどの一点
DustEcho編集部

どこから来たか
中庸は、その名をとった『中庸』という儒教の書の、まさに心髄である。昔の注釈者はこれを簡潔に言った。片寄らないことを中とし、変わらないことを庸とする、と。中とは、正しくちょうどの位置である。庸とは、常であり、変わらぬ道である。儒者たちはこれを最高に置いた。天下の道理の、行き着く果てはこれだ、と。それは書き留められる一つの掟ではない。すべてのことに通う一つの構えである。極端へ走らず、過ぎと足りないのあいだに、今に合う一点を見出すこと。
ひどく誤解されている
今日では、この言葉はほとんど悪口になっている。中という字を聞けば、両方にいい顔をして水を濁す者を思い浮かべる。庸という字を聞けば、平凡や、風見鶏のようにその場その場で良い方へ靡く者を思う。それらはすべて読み違いである。中庸のいう中は、二つの位置のちょうど真ん中という算術ではない。それは合う点である。進むべきときは進み、退くべきときは退き、重さがちょうどよい。蘇生すべきときに迷わず蘇生する医者、それが中庸である。決断すべきときに惚けず決める上司、それもまた中庸である。それは決して何もしないことではない。分別である。
中庸は動く、決まった中点ではない
一番大事な点を正す。中とは、数学的な中心ではない。それは状況によって動く。子どもに対しては、ゆるめるのが合うときもあれば、筋を通すのが合うときもあり、中道はそのあいだを揺れる。仕事においては、忙しいときは攻め、隙のあるときは養い、中道はそのリズムに従って変わる。中庸をいつも真ん中を取ることだと読むのは、かえってそれを固くしてしまう。本当のものは、今に対する十分な敏感さを持って、この瞬間に合う力を判断し、そしてその一点に安定して落ち着くことである。
いちばん難しいのは見極め
中道が動く以上、中庸は公式では回らない。見極めで回る。そして見極めこそ、現代の暮らしが人から奪う技術である。私たちは極端へ癖で流れる。ぶち込んで壊れるまで、あるいは完全に投げ出すまで。子どもを容赦なく見張るか、まるっきり放任するか。中庸は、おのおのの具体的な場で、あなた自身にその度合いを量ることを求める。それは標準回答をくれない。ただ、怠けるなと求める。白黒で済ませて省くな。ちょうどよくするために、もう一呼吸の知恵を惜しむな。
中庸には勇気がいる
中庸をこまかい者と誤解する者がいるが、しばしばそれには神経がいる。両側が共に過激で、共に声を張り上げているとき、真ん中に立つ者はかえって目立ち、両側から罵られやすい。断るべきときに断り、人を悪く思われることを恐れて曖昧にしない。過ちを認めるべきときに認め、顔を保つために強情を張らない。これらには、両側の圧を支えにする中道の勇気が要る。中庸は立場がないことではない。ちょうどの場所に立場を立てるのだ。左右ではないが、くっきりとしている。
感情に流されることとのかかわり
人が上ずるとき、いちばん中道を外しやすい。褒められて浮き、罵られて爆発し、順境で盲いた楽観に、逆境で全面的な否定に、これらはいずれも中庸ではない。中庸は感情がないことではない。感情に連れ去られないことである。怒っているが、分別を知っている。喜んでいるが、形を失ってはいない。この、感情に攫われない功夫こそが、人における中庸のいちばん日常的ないろである。風波のなかでも、立っていられるようにしてくれる。
平庸ではない、もっと難しい境地
中庸を平庸とするのは、それをひどく見くびることである。平庸とは、考えずに流れに従うことである。中庸とは、考え抜いたうえで、なおちょうどの一歩を選ぶことである。極端よりずっと難しい。極端はただ一つの流れに従えばよいが、中庸は両側を同時に見て、それから中を定めねばならない。長く中道を守れる人は、才によるのではない。繰り返す省みと練習によるのだ。だから中庸は決して並のものではない。それは修めねば至れぬ、落ち着きである。
人とのかかわりでは、思いやり
中庸は自分だけでなく、人に向かっても用いる。身近な者には、馴れ合いで口を滑らせない。好かぬ者には、嫌いだからと追い詰めない。話すべきときは話し、黙すべきときは黙る。分別がちょうどよい。この思いやりは弱さではない。両端を見極めたうえで、人を傷つけず、なお自分を守る位置を選んだのである。関係のなかでいちばん心地よい人は、いちばん熱い者ではないことが多い。中道をいちばん知る者である。遠すぎず、近すぎず、冷たすぎず、熱すぎず、ちょうど。
中庸は無態度ではない
中庸を、なんでもよい、勝手に、あなたが決めて、と化す者がいる。それは怠けであって中庸ではない。本当の中庸の人は、態度がはっきりしている。ただ、態度を刃にしないだけである。反対すべきことは反対するが、その仕方が人を傷つけぬようである。押し通すべきことは押し通すが、人を迫らぬようである。中庸が試すのはまさにこのことだ。自分を守りながら、なお他者への余地を残せるか。態度のないなんでもよいは、ただ見極めから逃げるだけで、中庸とは無縁である。
情報の洪水のなかでいちばん稀
今はどこもが側につくよう迫る。好きか嫌いか、左か右か、一瞬ためらえば態度が怪しいように見える。中庸はこの環境でいちばん難しく、いちばん尊い。それは、声がいちばん大きいときに、なお三秒余計に止まり、この件に本当に二つの答えしかないかを考えさせてくれる。中道を守ることは水を濁すことではない。皆が感情に押されて流されるとき、あなたが自ら歩くことを選ぶのだ。この醒めこそが、それ自体一つの力である。
中庸は長く続く心地よさ
極端は短期で気持ちよい。攻めれば効率が出るし、投げ出せば楽だ。だが長くは両方とも痛い。燃え尽きるまで攻め、空っぽになるまで廃る。中庸の報いは長く続く心地よさである。使い越しもせず、荒らすこともなく、リズムが安定し、後の力が長い。それはいちばん刺激的な道ではない。だがいちばん遠くまで歩ける道である。若いときは中庸をつまらぬと思い、何度か壁にぶつかってから、ちょうどよいその線がいちばん人を養うと悟る。
中庸が求めるのは醒めた知恵、平庸な安穏ではない
中庸を安穏求めに生きる者がいる。出過ぎず、過ちなく、大人しく日を送る。それは中庸ではない。それは身を保つことである。本当の中庸の求める安穏は、醒めたあとの選びであり、恐れたあとの隠れではない。出るべきときは出る。責めを負うべきときは負う。ただ、見せびらかしのためにむやみに走るな。中庸が守るのはあなたの分別であって、怯えではない。中庸を退くことに生きるのは、また別の一つの極端である。
中庸はまず自分に寛容であることから
私たちは他者には中庸を授けやすく、自分には極端になりやすい。痩せぬと自分を責め、昇進しないと全体を否定する。自分への中道は、まず物差しを行き止まりまで引かぬことから始まる。努めるが、自分を殺すほどではない。時おりの遅れを許し、時おりの得意も認める。自分に極端に走るなら、他への中庸もまた立たぬ。これはまず自分に練って、それから世に持ち出すものである。
小さなことから分別を練る
治国平天下から始める必要はない。今日からでも練れる。食べ過ぎず、自分を罰するようでもなく。残業を尽きるまででもなく、サボるようでもなく。人に温かく、だが境界を失わず。中庸はこれらの目立たぬ分別のなかにある。ちょうどよい一点を守るごとに、その中道の筋はひと回り強くなる。日が経てば、喧騒のなかであなたに一つの安定が育つ。どちら側にも流されず、自分がどこに立つかがわかる。その安定こそが、中庸が現代人にくれる贈り物である。中道は一日で成るものではないが、感情に連れ去られなかった每一度ごとに、あなたのうちに又一寸伸びる。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。