雲:集まれば散り、散りればまた集まる
DustEcho編集部

雲は昔の文化の中で、気が集まっては散るさまである。地の気が上って蒸し、冷たいものに遇うと雲となり、しばらく漂ってはまた虚に散じて帰る。陶淵明は「雲は心無くして岫を出づ」と書いた。雲に思いはなく、どこに留まるのも好きずき、風に従って来たり去ったりするということだ。だから雲が指し示すのは、ひとつの体験である。定まった形はなく、どの形にも執着しない。集まってもそれは雲、散ってもやはりそれは雲、去来ともに自由である。
形は無いが、あらゆる形を経たことがある
雲の妙は、それが定まった形を持たないことだ。今は山のよう、次は馬のよう、また平らにひとひらに広がる。雲は「私は山ではない」と抗議もせず、「さっきまで馬だった」と名残惜しみもしない。風が押せば、ただ変わる。人もこれが出来れば、多くのこじれが解ける。今のお前は部下であり、親であり、友であり、それは雲の仮の形に過ぎず、お前そのものではない。そう思えば、役割が替わっても慌てない。
あまりに多くの人が、ある一つの身分を自分に溶接してしまう。「私は強い者だ」「私は粗末にされた者だ」。雲はこの溶接を笑う。形は借り物で、風が過ぎれば返さねばならぬと知っている。一つの形を固く掴むほど、風が来た時に引き裂かれやすい。少し緩めよ。形が来て形が去っても、お前はお前のままだ。役はしばしの天気のために着るもの。天気でもなければ、空でもない。
月を隠せもし、霞を映せもする
雲には二つの顔がある。厚くなれば月を覆い隠し、地の者はそれを呪う。薄くなれば夕日が差し通り、燃えるような紅い霞となって空を埋め、誰もがそれを写し取る。同じ雲が、その厚みと位置によって、人の暗となり、また人の光となる。人もまたしかり。お前の一言、お前の沈黙が、人の目に落ちては、遮るものにもなれば、映すものにもなる。落ちる場所はお前には制せぬ。その勘定だけは受け入れるほかない。
だから「私は善い人か」とやかましく言うな。雲は月を遮るか霞を映すかと悩まない。ただ漂うだけだ。お前は為るべきことを為す。どこに落ち、何と見えるかは、半分はお前には無い。これを観じれば、ふっと緩む。あらゆる印象を必死に作り上げることは止め、ただ気ままに漂う。霞を映す時は、自然に映す。一つ一つの落ち場所を制そうとすればするほど疲れる。手を離して漂えば、思いがけぬ良い光が身に宿るものだ。
去来は痕を残さず、留められることも無い
雲はどの峰にも家を持たない。漂って過ぎれば、山は雲を覚えているが、雲は山を覚えない。この「覚えられて、己は覚えぬ」という達観は、多くの者が学べぬものだ。覚えられることの中に存在を求めようとするが、雲は構わぬ。己の道を漂う。山が覚えるか否かは山のことだ。雲は留められぬ。挟めばこぼれ、硝子の蓋に収められもせぬ。人の聚散もまたよくこうだ。ある者はしばし共に歩み、永遠のようにおびただしく重なり合うが、時が来れば散り、引けば引くほど手には空が残る。雲の教えはこう。来る時はよく漂い、去る時は遮るな。
軽やかに付き合える者は皆、雲の理を知っている。くっつかず、「何故留まらぬか」と詰めず、散った後にどの雲が先に動いたかを繰り返し反芻しない。聚は運であり、散は雲の本性だと知っている。留まるものは留め、留まらぬものは漂う姿を見送り、己もまた漂う。無関心なのではない。掴んだ雲は手の中ではただの水に過ぎぬと知っているからだ。その本当の姿は、ただ空にある。
己の変を説明しない
雲は今しがた馬のようで、次は山のよう。それが「さっき何故馬だった」と説明もせず、「今どうして山なった」と詫びもしない。変わるとはそういうもので、誰にも言い訳は要らぬ。されど人は説明したがる。変わったのはお前のせい、物事のせい、と。実のところ雲の教えはこう。変わるのに理由は要らぬ。理由とは後から他人に語るために綴るものだ。
己の変を説明したがるほど、その説明に縛られ、次に変われぬ体になる。雲は説明せぬから、いつまでも変われる。軽く変われる。己にも人にも「何故こうなった」と口数を減らせ。変われば変わったこと、漂えば漂ったことだ。解る者は自然に解り、解らぬ者は説明しても解らぬ。雲は己を弁明せぬ。漂った証は皆空に在り、口は要らぬと知っているからだ。信じば在り、信ぜぬとも追わぬ。
高いからこそ、淡く見える
雲は極めて高く、人の世の争いを見るとは、蟻が飯粒を運ぶのを見るようだろう。冷たいのではない。視点が得られれば、その事が命に関わるほどでも無いと分かるのだ。ある高みに登り、ある深さの経験を積めば、人もまた「雲となる」。高ぶるのでなく、躍起になった事が遠ざかって見れば、ただ一陣の風で散るほどのものだと分かるのだ。
だから雲がもたらすもう一つの体験は「高みがもたらす淡さ」である。中に沈めば天が落ちる思いだが、抜け出し、上がれば、それは地上の小さな塊に過ぎぬと分かる。己に一層の高みを与えよ。逃げるのではなく、視点を借りて人事を少し小さく見るためだ。手を空けて為るべきことを為すためだ。冷たくしろと教えるのではない。中でぐるぐる回る時、上がれる視点が己にあると覚えよ。一層上がれば、事はその事のまま、ただそれほど圧さぬ。争いが消えるのではない。ただその中に立たぬだけだ。
集まれば散り、散ればまた集まる
雲が最も絶望を教えぬ点はこれだ。散っても無くなったのではなく、虚に帰り、気が再び上ればまた新たな雲となる。永遠の散りも、永遠の聚も無く、巡るものだ。関係が薄れ、事が駄目になっても、終わりとは取るな。気は在り、時が来れば別の形でまた聚まる。聚に執われば苦しみ、散に執わればまた苦しむ。巡りと知って、ただそれが回るのを見よ。
多くの者が「散ればそれで終わり」に囚われる。雲は否と言う。今お前が独りなのは、雲の散った時だ。やがて別の処から新たな雲が昇り、お前はまたその中に在る。聚散を呼吸のように自然と思えば、失うことを恐れず、持つことにも貪らぬ。どうせまた来る、どうせまた去ぬ。
軽いからこそ、遠くへ行ける
雲が天下を漂い尽くせるのは、それが軽いからだ。重くなれば、雨を吸い満ち、雹となれば、落ちてその場に困る。軽さは無い重みではなく、墜ちぬほどの重みがちょうど在るということだ。人もまたしかり。担うものが実を帯びるほど、執着や身分や、どうしても証さねばならぬものほど、飛べず、その場に穴を掘るだけだ。
少し軽くなれ。不真面目なのではない。何事も一生の重みに溶接するな。雲は軽いから、最も高い空へ、最も遠い山へ行った。お前も少し軽ければ、より遠い処へ行かれよう。重くなれば墜ちる。これは雲の鉄則であり、人の鉄則でもある。誰かが「気楽に生きてる」と羨む時、たいていは彼に用が無いのではなく、どうしても証さねばならぬ重みを、ひとつひとつ下ろすのを惜しまぬからだ。下ろすとは棄てるにあらず、あらゆる雲を雹に握り締めることを学ばぬなり。
己に戻って
雲という喩えが語るのは、「形に執らず、自由に去来する」状態である。定まった形は無いがあらゆる形を経、月を隠し霞を映し、去来は痕を残さず、高みから淡く見、聚散は巡る。
お前は皆、雲だったことが在ろう。ある関係の中で溶けぬほど濃く、散れば己が無くなった気がした。あるいは逆に、いつも漂い、降りるを恐れた。雲の課題はこう。降りるも降りぬも良い。ある形を己そのものと取るな。お前はしばし聚む雲にも、しばし散る雲にもなれる。皆お前だ。漂えば良い。永遠に一团となって人に見せる必要も無ければ、散れば何にも無くなると恐れる必要も無い。雲が散っても気は在り、お前もまた在り。聚散を恐れるな、軽さをも恐れるな。軽ければこそ漂え、散ければこそ聚まって戻れる。雲の生き方は、己に白を残し、人にも白を残すことだ。聚散去来、これ皆その本分であって、その負い目では無い。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。