河流:ずっと流れていれば、海にたどり着く
DustEcho編集部

川は伝統文化のなかで、時間を最も形に見えるようにしたものだ。孔子は川辺に立って「逝く者はこのようであるか、夜も昼も休まない」と言った。見ていたのは、水がずっと流れて、決して後ろを振り返らないことだ。川には源もあれば末もある。山のなかの一しずくの泉から始まり、谷川に、川にと寄せ集められ、その途中で幾重にも曲がるが、向きは一度も変わらない。低いほうへ、海のほうへ。川が示すのは、ひとつの体験だ。それは速くはないが、止まらない。曲がるが、戻らない。ずっと流れて、ようやく遠いところへ着くのだ。
それは最速ではないが、最も着くものだ
山を下りる水にとって、いちばん速い道は真っ直ぐ落ちて滝になることだ。だが川はその道を選ばない。地形にならって、ここで少し曲がり、また曲がり、のろまに見えるが、決して止まらない。最後に海に入るのは、ひとひらめきで消える滝ではなく、ゆっくり歩き、ずっと歩くこの川だ。
一度に大成した人たちを考えてみよ。たいていは滝のようだ。勢いのあるときは激しいが、激しさが終われば散ってしまう。残らず、遠くへも行けない。川は違う。あの勢いを長い河道のなかに溶かし込み、毎日少しずつ流れ、一生を流れて、ついに海に入る。遅いのと止まるのとは別のことだ。川は遅いが、ゼロに戻ることはない。滝は速いが、ひと瞬きで消える。
人が物事をするときも、よく焦りを犯す。一度に着こうとする。だが多くのことには真っ直ぐ落ちる道はなく、曲がりながら歩く川しかない。その「速さ」を焦ると、かえって折れやすく、ぶつかりやすく、途中の岩の上で干上がりやすい。少し遅くてもかまわない。大切なのは止まらないことだ。川が勝つのは速さではなく、足を一度も上げないことだ。
それは曲がるが、向きは変えない
川でもっとも妙なのはその曲がりだ。山に遭えば山を迂回し、段に遭えばたまってからまた歩み、決して正面から突っ張らない。だがその曲がりをさかのぼって見ると、ひとつひとつの曲がりが皆、海へ向かっている。曲がるのは方法、海は方向。この二つを川ははっきり分けている。迂回を「あきらめ」と解釈する人が多すぎる。本当は迂回しても、それも前へ進むことだ。ただ石と張り合わないだけだ。
暮らしのなかには邪魔するものが多すぎる。正面からぶつかる人はしばらくぶつかって疲れると、そのまま座り込んで歩かなくなり、「運命だ」と自分を慰める。川はそうは考えない。曲がるのは、山は動かせないが、海はあちらにあるからだ。迂回を知る人が守るのは方向であり、どうでもいい障害と張り合うエネルギーを手放すことだ。
それには源もあれば、末もある
川は両端を見なければならない。源のその一しずくがどこから来たか、河口がどこへ向かうか。中ほどの一区間だけを見ていては、なぜこう流れるのか分からない。人も同じだ。今のその気性や生き方には、後ろに源がある。どこから来て、何に作られたか。前には望みがある。どこへ行こうとし、何を求めているか。目の前の一区間だけを凝視していては、多くのことが説明できない。
だから自分の「中ほどの区間」で自分を責めるな。今いる曲がりは、早い源によって決められたかもしれない。将来入る海は、今はまだ見えないかもしれない。源も末もともに抱えれば、自分への寛容は少し増え、他人への理解も少し増える。誰も理由もなく今のようには流れていないのだ。
それは船を浮かべもするし、ひっくり返さもする
川の水が船を支えるのは常識だが、水が増せば船もひっくり返る。川には二つの顔がある。十分に深く穏やかなとき、それは道であり、通路だ。物を載せれば、代わりに運んでくれる。だが増水すると、同じその水が危険になる。だから昔の言葉に「水は舟を載せ、また舟を覆すこともできる」とある。水が悪いのではない。同じ力が、加減ひとつで反対の結末をもたらすのだ。
人が他人を「支える」のも同じだ。誰かを支え、前へ運ぶのは良いことだ。だが自分が溺れるまで支え、あるいは相手が自分で歩くことを二度と学ばないまで支えれば、その支えは覆すことになる。支え方を知る人は、水の深浅を分かっており、増したときに手を離すことも知っている。助けないのではない。どこまでが岸で、その線を越せば淵かを知っているのだ。
それは夜も昼も休まず、決してあなたを待たない
川でもっとも無愛想な性質は、待たないことだ。川辺に立ってぼうっとしていても、流れる。忙しくても、流れる。準備ができても、もう一区間は流れ去っている。孔子が嘆いたのはまさにこれだ。水の流れが速いのを嘆いたのではない。あなたと相談もしないことを嘆いたのだ。時間とはこの川だ。あなたが加わるかどうかに関わらず、流れる。
「暇ができたら」を口癖にする人が多いが、川は逆流しない。待っているその「暇」の多くは、決して自分からは来ない。川の戒めは厳しい。やりたいことがあるなら、川がまだこの区間にあるうちにやれ。流れ去れば、その区間は本当に過ぎ去ったのだ。これは焦りではない。誠実さだ。川は待たない。それは本当のことだ。
五十になってこの理を悟る人が多いが、残念なことに川はもっとも彼を支えられた区間をすでに流れ過ぎている。だが悟れば遅くはない。上流を追いかける必要はない。今いるその区間に立って、下へ流れればよいのだ。川は「前の区間を無駄にした」などとして決して止まらない。足元のその一しずくから始めて、また海へ向かって続けるだけだ。あなたもまた。
それが映す空は、自分より大きい
川にもうひとつ妙なことがある。それは平らだから、映せるのだ。止まった腐った水は何も映さない。奔流する生きた水はかえってくっきり映る。川面は常に動いているのに、常に平らだからだ。川をのぞき込むと見えるのは川ではなく、空であり、山であり、岸を歩く人だ。川は自分よりずっと大きなものを借りて、内容があるように見える。
人も同じだ。ずっと歩き、ずっと平らな人は、かえってより多くを「収める」ことができる。腕が立つからではない。揺らがず、詰まらず、物が彼を通り過ぎ、そのなかに大きな世界を映すからだ。ちょっとしたことで波立つ人は、水面がすっかり砕けて、何も映せず、自分のその小さな泡沫だけが残る。川が教えるのは、大きなものを見たければ、まず自分を平らに歩け、ということだ。
それが濁るのは、通った場所が多いからだ
底まで澄んだ大河はない。都市を、田畑を、土砂が一緒に落ちる谷間を流れるのに、どうして源のその一しずくのようであり得よう。だがこの「濁り」こそが、それを川にしている。重みがあり、養う力があり、両岸を生かせるのだ。いつまでも清い小川では、何も養えない。
あまりに「清い」人に会ったことがあるだろうか。何にも触れず、何の過ちも犯さないが、何も背負ったこともない。清さは易しい。難しいのは土砂を流れてもなお前へ進み、岸で何かを養す気持ちを失わないことだ。川は自らの濁りを嫌わない。ただ流れるだけだ。濁りは通ってきた証であり、恥ではない。いつまでも「清さが足りない」という小さなことばかり見つめるな。あなたの流れたあの泥は、皆、海へ向かう道に入るのだ。
「不純」であることを恐れるな。経験し、妥協し、泥に染まったことは、あなたをあの薄っぺらな泉ではなくするが、物を支えられる川にしてくれる。高潔は易しい。難しいのは土砂を流れてもなお前へ進み、何かを養す気持ちを失わないことだ。川は自らの濁りを嫌わない。ただ流れるだけだ。あなたもまた、いつまでも「清さが足りない」という小さなことばかり見つめないでほしい。
もう一度、私たちについて
川というものが語るのは、続けられて、方向があり、迂回を知る「前へ進むこと」だ。それは速くもなく、真っ直ぐでもなく、待ってもくれず、清くもない。だが海に着く。
あなたはたぶん、皆、川になったことがある。自分でもうんざりなほど曲がった区間。怖いほど増水した区間。認めたくもないほど濁った区間。だが止まらず、後ろへ戻らなかったなら、その曲がりも、増水も、濁りも、皆、海への道に数えられる。川は後ろを振り返って、いくつ曲がったか数えたりはしない。あなたもまた、そうする必要はない。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。