握りしめたものは、もう流れている
DustEcho編集部

会社が移転したあの年、いつも使っていた自分の席がなくなることになった。なぜだか説明できないまま、片付けを終えたその日の夕方、三年間使い続けてきたモニターの台をしばらくぼんやり見ていた。壊れてはいない。退職するわけでもない。ただ階を一つ上がるだけだ。それなのに胸のなかの空洞は、足元の土台の一部が抜き取られたような感じだった。あとでわかったのは、悲しんでいたのはあの机のためではなく、私が「ここはずっとこのままだろう」を初期設定のように信じていたことだ。
私たちはいまを永遠だと思い込む
私たちはたいていそうだ。関係が何年か安定して続けば、これからも安定だと決め込む。体の数値が正常なら、自分はいつまでも丈夫だと思い込む。住み慣れた街なら、変わらないと決めてかかる。手になじんだ道具ひとつとっても、そこにずっといてほしいと感じている。脳は生まれつき、この瞬間を「通常の状態」と名付けて省エネを図ろうとする。だが生活は長期契約など結ばない。貸し出しの権利だけをくれる。
それは呪いではなく、ただの事実
無常ということばは仏教の側から来た。釈迦が弟子たちに何度も繰り返し語った基本の事実のひとつだ。古いことばで諸行無常とも呼ばれる。これは厄災のことではないし、怖がらせるための不思議な力のことでもない。ただ静かに指摘している。条件が集まってできたこの世のすべてのものは変化のなかにあり、どれひとつとしてその場にとどまることはできない、と。青春は過ぎる。出会いと別れは訪れる。健康は上下する。いま確信している考えでさえ、何年か後に振り返れば自分でも見知らぬものになるかもしれない。これは消極ではない。誠実なのだ。
握れば握るほど、痛みは増す
これを認めるのは、はじめは少し冷たく感じる。私たちがお金を貯め、関係を育て、道筋を立てるのは、少しでも確実を手に入れるためではないか。皮肉なのは、変わらないように死に物狂いで押さえつけるほど、変わりが訪れたとき痛むということだ。あなたが抗っているのは特定の出来事ではなく、ものごとの性質そのものだからだ。花が枯れないよう必死な人を思い浮かべてみる。最後につまずくのはある雨でもなく、春が過ぎゆくという事実そのものだ。生活に貼った札が強いほど、はがすときの傷は赤くなる。
関係のなかで一番静かに起きる変化
無常は関係のなかで一番静かに現れる。二人がちょうどよくいくとき、その温度がずっと続くとどちらも思ってしまう。だが生活は前へ進み、仕事も距離もそれぞれの成長の速さも、しずかに台本を書き換えていく。心が変わったわけではない。どの関係も時間の外で鮮度を保てるわけがない。流れると認めればこそ、まだ温かいうちにもう少しそばにいたくなる。ずっと変わらないと賭けるのではなく。別れがつらいのは、別れることそのものではなく、双方がこっそりそれを永久の状態だと思っていたからだ。
体もまた、そっと取扱説明書を書き換えている
体もそうだ。二十代で何夜か徹夜しても翌日は元気に動けていたから、回復力が高いのは永久の会員権だと決め込んでいた。ある日検査の結果に一本の矢印が増えるまで、体が黙って取扱説明書を書き換え続けていたことに気づかなかった。無常は疑り深くなれと言っているのではない。健康はこの瞬間の状態であって、生涯の肩書きではない、と教えているだけだ。大切に扱えば共に歩き、使い込みすぎれば静かに記録をつけていく。
子どもは私たちよりずっと素直だ
子どもが世界を見る目は、大人よりずっと素直だ。雲が消えたからといって半日も落ち込んだりはしない。雲はもともと流れていたのだから。大人になってから私たちは、流れるものを打ち付けて止め、止められぬことで苦しむことを覚えていった。ときどき子どもの目を借りて、来るものは来る、去るものは去ると見てみる。それは冷たさではない。ものごとの成り行きに任せることだ。彼らは私たちより早く、つかめないものはつかまなくてよいと知っていた。
一時的なものを永遠だと思うからこそ、苦しむ
一時的なものを永遠だと思うことは、多くの内側の苦しみの源だ。一度の批判で眠れぬ夜を過ごすのは、無意識のうちにこの恥が一生ついてまわると思っているからだ。終わった一章に執着するのは、心の底で本来ずっと続くはずだと決めていたからだ。だがその批判も関係も仕事も、それぞれある段階の産物にすぎない。本当ではある。永遠ではない。その上に「一時的」という文字が見えれば、痛みはまだある。しかしもはや人生全体へと際限なくふくらむことはない。
投げ出すことではなく、立ち方を変えること
無常を聞いて、投げ出すほうへ滑り落ちる人がいる。どうせ変わるなら努めてもしかたがない、とりあえず何もしないほうがましだ、と。これもまた別の誤解で、しかも手を抜いている。無常はあなたの行いを消すものではない。結果を溶接で固定してはならないとだけ教える。これからも真剣に働き、真剣に愛せばよい。ただ手の力を少し緩め、風向きが変わるかもしれないと知っていればいい。舟を漕ぐようだ。波が来たらそれに沿って櫂を調えれば、頭を上げて抗い通す人より遠くへ行ける。流れを見抜いた人は、つかむことにしがみつく人よりもっと深く踏み込むことが多い。この区間は二度と来ぬと知っているからだ。
変化に少しだけ余地を残す
変化に余地を残すことは、やさしい目覚めだ。たとえば「ずっと」と言うことを減らし、「いまはよい」と言うことを増やす。たとえば大切なものは、家宝のように引き出しにしまって大切にするのではなく、ときどき今も合うか確かめる。たとえばある時期の好みが期限切れになることを自分に許す。無理に「私はずっとこうだ」と張らなくてよい。流れることは裏切りではない。生きている証だ。川でさえ曲がらねばならない。人は石よりも川に近い。変化に残した場所は、結局あなた自身に残した息継ぎなのだ。
無常がくれる贈り物は、手を離すこと
無常が現代人にくれる贈り物は、悲観させることではなく、手を離すことだ。強く握らなければ持てないと思っていた。だが多くのものは、手を開いてみてこそ何かがわかる。砂を握りしめれば手元に残るのは湿った跡だけ。掌を広げれば、その一握りの砂が見える。手を離すたびは、失うことではない。やっと手のなかのものをまともに見られ、本当に残すか決められることだ。
今日からできる小さな一歩
今日から小さな一歩を踏める。最近あたりまえだと思い込んでいるものをひとつ選ぶ。人の伴侶でも仕事のリズムでも体の調子でもいい。心のなかでそっと「これもまた変わるかもしれない」と付け足す。怖がる必要はない。目を開くだけだ。すると内側の張った糸が一段緩み、息づかいが楽になるのがわかる。冷たくなったのではない。ようやく自分に誠実でいいのだ。
季節は誰にも相談しない
春が去るとき、花に行く気かと尋ねはしない。秋が来るとき、葉が準備できるのを待たない。自然のめぐりは誰の許しも要らぬ。人の暮らしもまたそうだ。心地よい季節に少し長く留まりたくなるものだが、季節は独有の時計を持ち、あなたが名残を惜しんでも遅くはならない。これを認めればこそ、それぞれの季節を真剣に過ごすようになり、ずっと押さえつけようとはしなくなる。流れはあなたに向けられたものではない。天地はもともとそう動く。それに従うほうが逆らうより楽だ。
真剣に向き合うことは、変化と戦うことではない
無常を認めると努力していないように見えると恐れる人がいる。実際は逆だ。手のなかのものが流れると知るからこそ、この瞬間をもっと真剣に扱う。真剣に愛し、真剣に働き、真剣に覚える。真剣さとはものを溶接で留めることではない。まだ温かいうちにしっかり握ることだ。無常が教えるのは、冷たさではなく、ほどほどの分別なのだ。
終わりに。無常は何かを奪いに来るのではない。ただ、あなたの握るすべてが借り物の時間だと気づかせてくれる。流れるからこそ、この瞬間は手のひらのなかで真剣に置いてみる値打ちがある。水ぶくれができるほど握りしめたまま、見る勇気もなく持ち続けるのではなく。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。