なぜ起きてもいないことでこんなに心配するのか
DustEcho編集部

そんな経験、ないだろうか。明日提出のものなのに、今夜のうちに「失敗して怒られた」場面を頭の中で三回も演じている。まだ口にしてもいない頼みごとに、相手の「断りのセリフ」を先回りして用意している。それとも、数時間連絡がないだけで「何かあったんじゃないか」と rehearsal を始めている。
今、何か起きているわけじゃない。「もしも」が、いつもあなたより先にやってくるのだ。
その「もしも」は、いつも先に来る
不安で一番つらいのは、たいてい目の前のことじゃない。本当に押しつぶすのは、まだ起きてもいない、たぶん起きないだろうという出来事だ。
昼間はまだいい。埋めるものがある。でも少し空くか、電気を消すと、そのチャンネルが勝手につく。そこが流すのは悪い知らせだけで、しかも実に滑らかだ。「ありえなくもない」と、見れば見るほど思えてくる。気づくと、まだ開いてもいない事故の泣き場面まで、何度も rehearsal している。
不思議なのは、それが想像だと自分で分かっていることだ。でも「分かっている」は「それ以上考えられなくなる」を止められない。それは臆病でも、大げさでもない。脳には古いクセがある。本当の危険を見逃すくらいなら、百回 false alarm を鳴らしたいのだ。
今日を生きているのではなく、明日を前払いしている
これを「考えすぎ」と呼ぶ。でも正確には、あなたは前払いをしているのかもしれない。
請求書は、本当にそのことが起きたときにはらうものだ。でもあなたは待てない。影も形もないうちに、最悪の結果の代償を先に引いてしまう。だからその日が実際に来たとき、あなたは初めて向き合うのではなく、二回目、三回目、十回目に向き合うことになる。自分で前払いした慌てですでに空洞になっている。
これは準備ではなく、消耗だ。準備とは「もう一歩しておけば、来たときに受け止められる」こと。この種の心配は「最悪の結末を何度も流す、来ても同じ自分のまま、ただ前もって疲れるだけ」だ。見かけは似ていても、重みはまるで違う。
用意しようとすればするほど、かえって落ち着かなくなる
もっと厄介なのはこれだ。用意万端にしておけば慌てない、と思えば思うほど、かえって落ち着かなくなる。
「すべての可能性」は無限だからだ。一つプランを足すたび、新しい不安を二つ掘り起こす。そのループに脳が入ると、出口はない。能力不足ではなく、「無リスク」という場所など存在しないのに、そこへ歩いているからだ。
だから多くの人は、物事が難しいから立ち止まるのではない。自分がでっち上げた「もしも」に、スタートラインで閉じ込められている。動く前に、もう動く気力をなくしている。
心配は計画に見えるが、実は別の疲れ方だ
見分ける簡単な方法がある。考えたあと、あなたは少し土台ができた感じがするか、それとも少し空洞になったか。
本物の計画は「何ができるか」に着地する。この前払い型の心配は、いつも「怖い、どうしよう、終わり」に着地する。それで「私はこれを真剣に受け止めている」という錯覚をくれるが、あなたを消耗させる以外、何も残さない。
気にしすぎることが悪いわけではない。どの気づかいが道を舗き、どれがその場でぐるぐる回って自分をふらつかせるだけかを見極めることだ。
心配をやめなくていい、そっと横にどかすだけでいい
最後に、実際的なことを。自分に「考えないで」と言っても無駄だ。抑えれば抑えるほど跳ね返る。
別の動きを試してほしい。そのチャンネルがまた自動でついたとき、争わず、無理に消さず、「これはまだ起きていない。メモしておくけれど、起きるという意味じゃない」とそっと札をつける。それから、目の前の小さな一つをやる。明日のリストを書くだけでも、頭の中で災害映画を流すよりずっとましだ。
あなたの脳が早く出社したがるのは、あなたを守りすぎたいからだ。ただ方法を間違えているだけ。「もしかして」を「もう起きた」と扱っている。叱らなくていい、やめさせなくてもいい。早撃ちするとき、そっと今日のマス目へ戻すことだけを覚えればいい。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。