誰も頼んでいないのに、なぜ私はつい手を挙げて仕事を引き受けるのか
DustEcho編集部

それはたいてい、仕事そのものが理由ではありません。あなたが何度も手を挙げるのは、必要とされることが安心につながっているからです。自分は意味がある、置いていかれたり代わられたりしない、そんな証拠を手に入れるために前に出るのです。誰も名前を呼んでいないとき、手を挙げることは、自分がまだ数に入っていると確かめる方法なのです。
グループチャットで誰かが「これ、空いてる人いる?」と一言添えると、あなたの指はもう「私がやります」と打っています。会議で誰も引き受けない仕事が出ると、手元はすでにいっぱいなのに、それでも自分の名前を書き込みます。ときには誰も口を開かないこともあります。あなたはただ「ここには人が必要だ」と感じ取り、黙ってその荷を背負うのです。その手は、自分ひとりで何度も挙がります。
これは、投げられたものを受け取ることとは違います。ボールが飛んできたから受け止めるのが受動なら、自分から手を伸ばすのが能動です。それは内側の警報に近いものです。空白が見えると、体が我先にそれを埋めようとします。埋めなければ、何かが崩れるような気がするのです。あなただけではありません。能力の高い人ほど、まさに「何でも引き受ける」ことで駄目になっていくのを私は見てきました。本筋の仕事が雑用に埋もれ、年末の振り返りでは自分が何をしたかうまく言えなくなるのです。空白はまるで呼び声のようで、あなたはいつも最初に応える人になります。応えたあと自分が夜を徹して本筋を埋め、翌朝には黒い隈を目の下に作りながら同僚に笑って「大丈夫、ついでだから」と言うのです。
誰も命じていないのに、なぜ私は手を伸ばすのか?
最も核心にある動機は、たいていこうです。あなたは必要とされることを、安心の代わりに交換しているのです。自分の価値が「皆の役に立つ」に結びついているとき、引き受け手のない仕事は一つ一つが証明の機会になります。見てくれ、私はいてもいなくてもいい人間ではないのだと。これは、なぜ仕事でどうしても自分を証明しなければと思ってしまうか、という問いと同じ線上にあります。あなたはただ物事をしているのではなく、物事をして「私は十分に良い」という証拠を集めているのです。
平たく言えば、あなたがつかもうとしているのは仕事ではなく、自分が必要とされている証拠なのです。ある日誰もあなたを必要としなくなったら、その慌て方は仕事の多さよりつらいでしょう。
一息つくとすぐに慌ててしまう人もいます。手が空くと、頭が焦りを作り始めるので、自ら仕事を探して不安を押し込めます。
もう一つの層に、恥があります。自分が「やることがない」と言うのが怖いのです。「暇=怠け=価値なし」という式の中で、手を挙げることは自己防衛になります。疲れるぐらいならいい、余るように見せるわけにはいかない、と。これは、仕事で助けを求めるのが恥ずかしいと思ってしまうことともつながります。人に頼るより、一人で背負うほうを選ぶのです。
その下には、拒絶への静かな恐れも横たわっています。手を挙げなければ、人はあなたを少ししか見てくれなくなるだろうか。もっと目立つ誰かのほうへ流れていってしまうだろうか。手が挙がるのは、その仕事があなたのものだからではなく、目立たないままでいることが、過負荷であることより怖いからです。
たくさんやれば、本当に安心になれるのか?
短期なら、なります。たくさんやれば、見てもらえたり感謝されたり、ときに「やっぱりあなたは頼りになる」と言われたりします。でも、そこには二つの罠が埋まっています。
一つ目は、あなたがますます進んで引き受けるほど、周りは「どうせやってくれるだろう」と決め込み、あなたが休むべき時間が少しずつ食われていくことです。これは、断ると罪悪感を覚えるのは普通なのか、という問いの鏡写しです。あちらは断ることへの恐れ、こちらは引き受けないことへの恐れ。根は同じで、他者の期待を自分の義務にすりかえているのです。
二つ目は、人の空白を埋めるのに忙しくしている間に、自分の本筋の仕事が薄まっていくことです。あなたは信頼を貯めているつもりですが、本当は周りの人に「用があったらあの人に」と訓練しているだけで、あなたの本当の強みは育つ場所を失います。
もっと隠れたコストがあります。あなたができる人になればなるほど、チームは自ら成長することをやめます。彼らはあなたをクッションに使い、自分の筋肉を退化させるのです。あなたは人を助けていると思っていますが、実は彼らが練るべき課題を飛ばさせているのです。
この交換が実際にどういう形をとるかは、次のようになります。
- 見え方は上がるが、負担も上がる。「頼りになる人」という言葉は、静かに税金になる褒め言葉です。
- 彼らの依存が深まるほど、あなたの余白は狭まる。救援のたびに、彼らは救援を待つことを覚えます。
- あなたの本筋の仕事が代償を払う。採用された雑用に本職のスポットライトを奪われます。
- 安心は借り物のままだ。埋めるべき空白の供給が続かないと、不安が戻ってきます。
助けたいことと、助けるべきことの境界はどう引く?
冷たい人になる必要はありません。助けたいことと助けるべきことの間には、明確な線を引けます。あえて言えば、次のような線です。
| 自問すること | 助けたい「任意」 | 助けるべき「優先」 |
|---|---|---|
| 誰かがやっているか | まだ誰もいないが、私が唯一の担い手ではない | 明らかに私に割り当てられている |
| 本筋の仕事は | 私の重点を中断させる | もとより私の職責の内 |
| 助けたあと誰が育つか | 相手は依存を続ける | 相手は方法を学ぶ |
| 私の状態は | すでに使い果たしている | まだ余力がある |
この線を引く小さな動き:
- 手を挙げる前に三秒待つ。脳に「これは本当に私のものか」と判断する時間を与え、手が口より早く出ないようにする。
- 「私がやります」を「これ、担当は誰で、どこを支えればいい?」に変える。肩代わりを、共同の支えに変える。
- 毎週「埋められない」時間を一区切り残す。自分の本筋のために取り置き、他者の用はすべて並び待ちにする。
- 「今回は受けられないけれど、代わりの人を探す手伝いはできる」と練習する。仕事は断っても、善意は断らない。
この線は一度に引き切れるものではありません。小さな仕事一つから「今回は受けられない」と言う練習を始めてください。空が崩れないし、誰も恨みはしません。彼らはただ黙って、次の担い手を探しに行くだけです。チームのみんなが自分を好きになってくれなければとつい思ってしまう、という問いの中に、多くの進んで引き受ける行動が実は機嫌とりであると気づくでしょう。それが見えれば、手は少しゆっくりになります。
誰もあなたを呼ばないとき、あなたにはまず自分の用を済ます権利があります。伸ばしたその手は、まず自分を抱きしめることもできるのです。仕事を引き受けること自体は悪くありません。悪いのは、それを安心を得るための唯一の切り札にしてしまうことです。手を少し引いても、あなたは相変わらず頼りになる人です。ただ、ついに自分自身に頼りになることを優先できるようになっただけです。
次に「私がやります」という衝動が湧いたとき、まず一つ問ってください。この仕事は、私がいなければできないのか、と。答えはたいてい否です。そしてあなたには、自分へのもう一つの夜が増えるはずです。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。