なぜ感情が湧くと、まずそれを考えてしまうのか
DustEcho編集部

パートナーから電話があって、声が震えていた。家で何かあったらしい。あなたの最初の反応は胸が締め付けられることではなく、頭に次々と浮かぶ質問だった。どれくらい深刻か、休みを取るべきか、まず誰に連絡するか、いつチケットを取るか。落ち着いて聞き、電話を切ってからふと気づいた。あなたはこの間、一度も本当に「つらい」と思っていなかった。
こんなことは初めてじゃない。友達が泣きながら話すと、あなたはティッシュを渡してから原因を分析する。自分に嫌なことがあっても、感情が顔を出す前に、もうその説明書を書いている。
感じていないのではない。感じた直後に、それが奪われるのだ
「自分は鈍感だ」と思っている人は多いが、そうではない。今の気持ちがおおむね何か、ちゃんと言えるし、上手に説明もできる。問題は別のところにある。感情が体から湧き上がったその一秒、それが「広がる」間もなく、脳がせり出してきて、理解できる言葉に翻訳してしまう。
誰かがあなたの手に何かを押し付けるようなものだ。見る間もなく、横にいる「まとめ好き」の人に手渡してしまう。あとで「さっき何を受け取ったっけ」と思っても、手元にあるのは書き込み済みの付箋だけだ。
なぜ脳はせっかちに翻訳したがるのか
多くの人にとって、「感情がある」ことは「何かが起きる」に等しい。悲しい時に「泣くことなんてないでしょう」と言われ、怒った時に「どうしてそんなわがままを」と言われてきたなら、早くから学ぶ。感じることは面倒だ、まず分かれば安全だ、と。
だから感情が現れた瞬間、脳は守衛のように出勤する。この得体の知れないものにレッテルを貼り、仕分けし、もっともらしい理由を見つけ、できれば解決策までつける。それが「説明できれば」危険は去った気になる。感じたくないのではない。感じたものを、コントロールできる形にしたいのだ。
考えるほど、自分を横から見るようになる
微妙な変化がある。先に分析することに慣れると、感情を体験するやり方が「観察」へとずれていく。悲しい時、悲しいのと同時に頭の中の声が「今、私は悲しい。理由は……」と注釈する。怒った時、怒りながら「この熱、ちょっと行きすぎか」と採点する。
とても冷静に見える。代償は、あなたが常に一枚隔てていることだ。映画を見るときずっと字幕に目を落としているようなもの。字幕の言葉はわかるが、画面があなたを動かそうとしたその一瞬を、あなたは飛ばしてしまう。あらすじは言えるが、本当に動かされたことはない。
いくつかの感情は、先に分からなくていい
私たちは、物事は「考え抜かないと」過ぎ去らないと思いがちだ。でも感情は論理の問題ではない。悲しみも嫉妬も不満も、あなたが何も分析しないうちに、体の中を勝手に流れていく。それを止めて「何の権利で出てきた」と問いただすと、そこに引っかかり、言葉にならない鈍い不快感になる。
だから考えるほど疲れるのだ。あなたは感じているのではなく、自分の感情と交渉しているのだ。
しばらく字幕を消してみる
次に感情が湧いた時、小さな実験をしてみてほしい。急いで名前をつけないこと。それが湧いたら、そこに留まって、胸や胃のあたりに少しだけ置いておく。何と呼ぶか、どこから来たか、あっていいか悪いか、気にしなくていい。
多くの感情は「分からなくても」構わない。しばらく居て、自分で消えていく。翻訳役を急がなくなった時、あなたは初めて本当にそれを「体験」する。観客ではなく、それが起きた本人として。
いつでも何を感じているか分かっている必要はない。時にはただ「感じる」ことだけでいい。そうすれば感情は、頭の中の付箋ではなく、あなたのものに戻る。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。