なぜ大きなことが起きないと何も感じられないのか
DustEcho編集部

この前、友人に高級なレストランへ連れていってもらった。照明も盛り付けも一緒にいた人の笑い声も、ふつうなら楽しいはずだった。でも私はガラス越しに全部を見ているような状態で座っていた。きれいだけど、温かくない。それが翌日、仕事でミスをして名指しで注意されたとき、突然「生きている」実感が戻ってきた。胸の高鳴り、手の汗、一睡もできなかった夜。そのとき気づいた。私を感じさせるものは、ほとんどが嫌なことだということに。
これはあなたが消極的だからでも、恩知らずだからでもない。おそらく、あなたが感情を受け取る感度の閾値が、少しずつ上げられてしまったのだ。
痛むところには、扉が開いたまま
神経系には現実的な理屈がある。危険は喜びよりもずっと重要だ。痛みや恐れや恥は、すぐに気づかなければ生存そのものが危うくなる。だから脳はマイナスのチャンネルをより鋭く調整し、いつでも反応できるようにしておく。
でも緊張した状態が長く続くと、このシステムは強い刺激に慣れていく。毎日濃い塩分を取っている人が、薄味の料理をもう感じられなくなるのと同じだ。舌が壊れたのではない。基準線が動いただけだ。ふつうの小さな喜びや小さな安らぎは、その線の下に落ちて、そのまますり抜けていく。
鈍っているのではない、重いものだけ受ける
多くの人は自分が「鈍った」「空っぽだ」と結論づける。でもよく見ると、あなたは感情がないのではない。重いものしか受け止められないのだ。何気ない優しい言葉には反応しない。ふつうのデートは「まあまあ」で終わる。響くのは、衝突や失敗や否定のように、重みのあることだけだ。
それが厄介な循環を生む。軽い感情が入ってこないから、半ば無意識に重いものを追いかけるようになる。ぎりぎりまで動かずにいれば、関係が壊れてからようやく話す。激しい感情を使って「まだ生きている」と証明する。痛みが好きなのではない。ただ、そのふうに打たれるやり方を知っているだけだ。
重いものこそ、あなたの知っているもの
最後にハッキリ「ここにいる」と感じたのはいつか。おそらくそれは愛ではなく、刺だったはずだ。長い緊張が、あなたに「激しいこと」と「本物」をイコールで結ばせた。だから穏やかなものは嘘くさく見え、鋭いものだけが安心する。それがあなたの読める言葉だからだ。
だからこそ、静かな場所でじっとしていられない人もいる。静けさは何の信号もくれないから、脳は危険を探しにいく。システムに「仕事」を与えるためだ。ドラマが好きなのではない。警報機が長すぎるあいだ、柔らかい音楽を聞いていなかっただけだ。
閾値を少しだけ下げる
小さなことで弾けようと無理に努めなくていい。まずはこれを認めるところから。軽い感情もまた感情だ。ただ声が小さいだけだ。
毎日、「取り立てて何でもない」ことを一つだけメモしてみる。ちょうどいい温度のお茶。誰にも求められなかった静かな時間。良し悪しを評価しなくていい。ただ、それがあったと気づくだけだ。はじめは馬鹿らしく、数合わせのようだろう。でも時が経てば、その上げられた線は緩む。小さな波もあなたに届くようになる。
感じる力を失ったのではない。ただ、何かを聞き取るために目盛りを最大に回していただけだ。少しだけ戻せば、暮らしのやわらかい部分に、また色が戻ってくる。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。