なぜ私はいつも、あの「頼れる人」でなければならない気がするのか
DustEcho編集部

「頼れる人」は生まれつきの性格ではない。それは、いつしか静かに、特定の「椅子」を占めるようになった結果だ。誰も座っていないその椅子に、あなたはいつの間にか座り込み、それが当たり前になりすぎて、今さら立ち上がることが怖くなっているだけかもしれない。
会議が終わったあとの部屋を想像してほしい。ホワイトボードには消しきれないフローの矢印が残り、プロジェクターのコードが床に這い、やるべきことは四人のノートにバラバラに散らばって、誰のものでもない。人々は立ち上がり、荷物をまとめ、お昼をどこで食べるか世間話をしながら去っていく。あなたは残る。誰に頼まれたわけでもない。「誰かがやらなきゃ」とただ感じたからだ。だからホワイトボードを拭き、機材を一台ずつ片づけ、散らばったタスクを共有ドキュメントにまとめ、「共有しました、確認を」と一言送る。そのときあなたは腹を立てていなかった。自分がそれをしていることさえ、ほとんど意識していなかった。それはもう、考えるより早く身についてしまった姿勢になっていた。
この「私が頼れる人でなければならない」という感覚は、職場で多くの人が味わっているのに、ほとんど誰もきちんと考えたことがない。よく「性格だ」と誤解される。あなたは生まれつき責任感が強い、信用できる、あなたに任せれば安心だ、と。でも性格は安定した好みのことだ。「誰かがやらなきゃ」は、位置のことだ。あなたは生まれながらにその椅子に座っていたわけではない。十分に早い何らかの状況で、それを占めることを覚えたのだ。家でいちばん早く大人びた子だったかもしれないし、誰も教えてくれず自分で立ち回るしかなかった最初の仕事の新人だったかもしれない。その位置に長く座っていると、いつしかアイデンティティになる。
なぜいつも私に降りてくるのか?
あなたはタスクを受け取っただけではない。「誰もやらなければ、すべてが崩れる」という前提ごと受け取っているからだ。どんな協働にも、境界があいまいな部分は必ずある。消灯を誰がするか、フォローを誰がするか、何か乱れたときに誰が前に出るか。多くの人はそのあいまいな地帯に少し鈍感で、誰かが口にするまで動かない。あなたは違う。あなたはその空白に異常に敏感で、境界を自動でスキャンする機械のように、空白を見つけると補ってしまう。仕事で制御を手放せない人も、たいていこのスキャナーそのものだ。コントロールしたい欲と、穴を埋めたい欲は、同じ源から来ることが多い。
問題はあなたがそのことをしていることではない。そのことを「あなたのもの」と決め込んでいることだ。やがて周りの人も、あなたを万能の当て布として扱うようになる。彼らが怠けているわけではない。空白はいつも埋まるのだから、彼らは「これはそもそも誰のものか」を見分ける手間を徐々に省くようになる。あなたは一度ずつの埋め合わせで、他人の期待を訓練している。それがあなたに責任感があるかどうかはあまり関係なく、あなたが「空白に座っていられない」こととずっと関係している。責任感とは結果を引き受ける覚悟だ。あなたは他人が背負うべき空白まで、丸ごと飲み込んでいる。
私は本当に他人より責任感が強いのか?
とは限らない。責任感とは、やるべきことはやり、その結果も引き受けるということだ。しかし「頼れる人」にはもう一層が加わる。たとえ自分の管轄ではなくても、そこがぶら下がっているのが耐えられず、手を出してしまう。前者には境界がある。後者にはない。境界のない引き受けは、最初は美しく見える。頼もしい優しさのようだ。だが長く続くと慢性的な消耗になる。他人が自分で背負うべき分をあなたが代わりに背負うので、彼らは練習する機会を失い、あなたは本来自分のものではない疲れを山のようにため込む。
小さな仕分けの練習がある。あいまいなことが流れてきたとき、まず自分に一言問いかけてみる。それは「私に割り当てられたもの」か、それともただ「私に関係があるもの」か。割り当てられたものは受ける。関係があるだけのものは、ひと声かけるだけでいい。引き受ける必要はない。頼れることと、他人の分まで自分に生やすこととは別だ。多くの人はこの二つを分けられず、他人のリストを自分の重みとしてずっと背負い続けている。
| 頼れる人 | 本当に責任を担う人 |
|---|---|
| 空白が見えたらすぐ補う | まずその空白が誰のものか判断する |
| 「誰もやらなければ崩れる」と恐れる | 崩れてもそれを引き受ける人がいると知っている |
| 引き受けが境界を越えることが多い | 引き受けは境界の内側に留まる |
| 疲れているが、どこが疲れているか言えない | 疲れていても、どの枠で疲れているか分かっている |
あの椅子に座らなければ、どうなるのか?
これがいちばん胸がざわつく問いだ。多くの人がその椅子から立ち上がれないのは、座ることが好きだからではない。立ち上がった瞬間に、場が乱れるのが怖いからだ。だが考えてほしい。場が「あなたしか支えられない」ように見えるのは、長くあなたがその位置を占め、他人に成長する必要がなかったからでもある。あなたが半歩下がれば、他人が崩れるとは限らない。彼らはただ、初めて自分で椅子を探す必要に直面するだけかもしれない。
もちろん、現実には本当に誰も拾わない厄介な状況もある。見分けは簡単だ。それが「構造的な空白」なら、チームがもとから人不足で、プロセスがもとから切れていて、リソースがもとから足りないのだから、それはあなた一人の椅子の問題ではない。制度が埋めるべき場所だ。一人で座っても埋めきれない。それが「習慣的な空白」なら、実は他人にもできて、ただあなたを待つ癖がついていただけだ。あなたが一歩下がれば、相手はたいてい一歩前に出る。この二つを分ければ、すべての重みを自分のものと誤認しなくなる。
もっと隠れた層がある。この椅子に座り続ける人の中には、「必要とされる」こと以外に、自分の居場所をどう確かめればいいかよく分からない人がいる。ある関係やチームの中で、主に「役に立つこと」で立っているとき、その当て布を置くことは支えを置くことと同じで、一瞬ふらつく。価値観が「産出」に縛られていると、立ち止まるには勇気がいる。
あの椅子は、あなたの名前ではない
「頼れる」は選択でよい。それが拉致であってはならない。今日はホワイトボードを拭き、明日は拭かなくていい。このプロジェクトではカバーし、次のプロジェクトでは自分の分だけやればいい。椅子はいつもそこにあるが、座るか、どれくらい座るかは、あなたが決めることだ。あなたが「私に関係がある」と「私が責任を持つ」を分け始めれば、自分以外には埋められないと思っていた多くの空白が、実はあなたが手を離せば、誰かが受け止めてくれるだけのものだと気づく。
あなたがずっと頼れる人でなければならないのは、このテーブルに居ていいと証明するためではない。テーブルにはとっくにあなたの席が用意されていて、ときどき立ち上がって片づけなくても、それがなくなることはない。次に会議が終わったとき、全員より少し先に帰ってみてほしい。ホワイトボードは明日まで残るかもしれない。でも明日には誰かが、あるいはそもそもそれほど大したことではなかったと分かるだろう。
- 「頼れる人」は生まれつきの性格ではなく、あなたが占めるようになった位置のことだ
- 責任には境界がある。その境界を越えて他人の分まで背負うのは美徳ではなく消耗だ
- 穴に向き合う前に問いかけよう。それは私に割り当てられたものか、それとも単に関係があるだけか
- すべての穴があなたのものではない。構造的な穴は制度の仕事であり、習慣的な穴は他人が前に出られる
- 椅子はいつもそこにあるが、座るかどうかはあなたが決める選択だ
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。