なぜ場所を占めるだけで罪悪感を感じるのか
DustEcho編集部

電車に乗って、空席があるのにあなたは縮こまる。鞄を胸に抱き、腕を体側にぴたりとつけ、ほんの少しでも余計な場所を占めるまいとする。会議で体を椅子の奥に埋め、発言の声を落とす。まるでこの位置にいること自体、先に謝っておかねばならぬようだ。
これは丁寧さではない。罪悪感だ。あなたは自分が場所を占めていることに、罪悪を感じている。
この感覚は早くから育つことが多い。子供のころ、騒ぐな、奪うな、声を出すな、目立つなと暗に言われたかもしれない。あなたの存在そのものが、面倒の元と見なされたのだ。そうしてあなたは一人前に、自分を小さく折り、隠し、これでなければ人に煩わせまい、邪魔をかけまいと思った。
大きくなっても、私が場所を占めるのは間違っているという考えが残り、姿だけ変えた。人混みの中でふと端を歩く。褒められてまず否定する。頼みごとをする前に十句の謝罪を敷く。関係の中でもいつも譲り合いを抢り、まるであなたが楽なら相手は必ず不快になるかのようだ。
しかし場所は限量されて供給されるものではない。あなたが少し広がっても、人の場所を奪うことはない。世界は一人しか座れない椅子ではない。あなたが座っても、他の人が立たねばならぬわけではない。むしろ一人が自分の位置を堂々と占められれば、隣の人こそほどよく緩めるのだ。
その罪悪感は、じつは古い誤解だ。私が存在することを、私が邪魔をするのだと読み違えている。しかしあなたが存在することに、あらかじめ許可はいらない。あなたが息をし、一隅を占め、声を出すこと、それらはそもそも許されたことであって、特権でもなければ誰かの恩でもない。
少し緩めるには、ごく小さなところから練習できる。座るとき背中を椅背に預ける、宙ぶらりんにしない。歩くとき自分を道の真ん中に戻す、壁にへばりつかない。話すとき相手が楽に聞ける音量まで上げる、先に落とさない。
そうすれば徐々に分かる。自分の存在に謝らなくても、誰もあなたを怒らせてはいないと。あなたはただ、ようやく、もともとあったほんの小さな場所を取り戻しただけなのだ。
謙譲は美德ではないかと言う人もいる。そうだ、しかし謙譲と自分は場所を占めるに値しないと思うことは別物だ。前者は選んだ上での譲り、後者は自分にも分け前があるとそもそも信じられないことだ。一方は落ち着いて譲る、もう一方はおどおどと縮む。今自分がしているのはどちらか、まず見分ける価値がある。
好きな友だちがいたとして、その人が堂々と座り、話し、自分の位置を占めていたら、あなたはその人を欲張りだと思うだろうか。たぶん思わない。ではなぜ自分には別の基準を当てはめるのか。
結局、あなたが自分の位置を占めるのは、誰かのを奪うことではない。世界は十分広く、あなたが広がっても他の人が広がっても、ともに収まる。まず自分を落ち着かせれば、隣の人こそ気楽に居られる。これは決して我儘ではない。皆がまず立つからこそ、一緒に立てるのだ。次にまた無意識に縮んだら、半秒止めて自問してほしい。私が今譲ろうとしているこの一片、本当に誰か必要としているか、と。たぶん要らない。その半歩をゆっくり戻せばいい。見せびらかすのではなく、ようやく自分に座を残すことを承認しただけだ。あなたが存在するその事柄自体、誰の許可も要らず、ましてや先に謝るべきでもない。
今日から、背を少し伸ばし、声を少し大きくし、もともと自分のあった座を、ゆっくりしっかりと腰下ろそう。世界が一片欠けるわけではない。あなたはただ、少しだけ踏みしめるのだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。