なぜ過程を楽しめず、結果ばかりを見つめてしまうのか
DustEcho編集部

過程を楽しめないのは、たいていの場合、あなたが気づかないうちに「いま」を何かの結果へと続く踏み台として扱うようになったからです。踏み台の上にだけ意味があり、踏み台そのものは踏み越ぎるためだけのものだと思っているので、目の前の瞬間が「手段」へと押しつぶされてしまうのです。結果志向の癖が現在を手段にしてしまうため、からだは今日に立っていても心はいつも明日の一点にぶら下がり、いざそこへ着いても、その一点が思ったほど心を満たしてくれないと気づきます。
これは怠けではなく、「生活の楽しみ方がわからない」からでもありません。繰り返し鍛えられた注意力の癖なのです。価値のすべてをゴールに突っ込み、道中の景色や手触り、迷いや微調整を、省いていい雑音として扱ってしまう。この先では、あまり口に出して語られない三つの角度から、この癖がどう育つか、なぜ着いたあとが空っぽになるか、なぜ不確実さに耐えられなくなるかを見ていきます。
なぜ過程が「手段」になると、味がしなくなるのか
ある行いに「味があるか」は、とても単純な仕組みにかかっています。あなたがそのことに注意をとどめていいと思えるかどうかです。運動を「五キロやせるための代償」だけと見なし、子どもと過ごすことを「責任を果たす務め」だけと見なし、報告書を「出世の材料のれんが」だけと見なすとき、あなたの注意は前借りされています。それは現在になく、まだ起きていない結果の上にあります。
これには目に見えない代償があります。あなたはそのことをしているのに、ほとんどそこにいないのです。からだは動いているのに、脳はもう次の手、次の指標、次の締め切りを計算しています。だから過程は本当に「経験」されることもなく、あとで味わえる細部も残りません。「あの期間、私は何をしていたんだ」と振り返っても、脳は真っ白になることが多い。そのときのあなたは、そこになかったからです。
なぜ目標を達成したあと、かえって空になるのか
結果志向の人は、「あのものを手に入れさえすれば、ほっといて、ちゃんと楽しめる」と思いがちです。しかし現実はたいていこうです。手に入れて、三秒ほどほっとし、そして空っぽになる。
理由は難しくありません。長く「到着する」という動作に期待を投じていたので、到着したあと、その投じた対象が消えます。しかし「すでに持っていることを楽しむ」力は、これまで一度も鍛えられていません。それは「追いかける」こととは別の筋肉なのです。ずっとうつむいて道を急いできた人が「着いたよ」と言われて固まるようなものです。次はどこを見るのか、どう見るのか。
なぜ「不確実」にこんなに不耐なのか
結果志向の裏には、たいてい口にしない恐怖が隠れています。私は、過程が結果を保証してくれないのが怖いのです。結果が確定するまでは、途中の一歩一歩が乾いていない土の上を歩むようで、早く渡りきって、足跡を残さずに済ませたくなります。
この不確実さへの不耐が、人をして「ゆっくり」「回り道」「試行錯誤」をすべて無駄と見なさせます。あなたは効率でもってすべての迷いを覆い、あらゆることに「役に立つか」で札を貼ります。しかし、価値のあることのほとんどは、過程の中に自然と不確実さを抱えています。関係も、創りだすことも、学ぶことも、からだの回復も、ボタンを押せばまっすぐゴールへ行くものは一つもありません。
だからあなたが到着を急げば急ぐほど、過程のありのままを許容できなくなります。許容できなければ、楽しめなくなります。これは自分で自分を締め上げる循環です。順勢という考え方を练っていないと、この輪はますますきつく締まります。あなたは本当に誰かと競っているのではなく、ただ足元の道に「進捗の棒」がないことを怖がっているだけなのです。
やさしい見方:過程は結果の「敵」ではない
まず、「過程を楽しむ」を、張り紙めいた決まり文句の棚から出して考え直しましょう。それは目標を捨てろという意味でも、無気力になれという意味でもありません。ただの気づきです。脳は「いま」を「あと」に抵当に入れる癖があり、それを長くやりすぎると、人は根っこから生きている実感を失います。
東の知恵に放下があります。ここにぴったりです。目標を投げ捨てるのでなく、結果を「がっちり握りしめる」その構えを少し緩めるだけです。そうすれば過程の手触りが入ってこられます。また無為も、ただ寝転ぶことではありません。まだ起きていないことと、すべての力で張り合うのをやめることです。
「いますぐ結果が見えなければならない」を「このことが、それにかかるべき時間を使うのを許す」に変えれば、過程はふたたび経験される余地を取り戻します。中庸のように、目標と過程を引き締めるのでも緩めるのでもなく、両方を同時に持つ視点も、ここでは役に立ちます。
もう一度、過程を楽しむことを学べるか
ええ、学べます。しかしこの力は「一度わかった」で育つものではなく、小さなことで繰り返し、やさしく練る必要があります。以下のやり方は不思議でもなく、鍵は敷居が低く毎日できることです。
- 過程に「無目的」の場所を一つ残す。 毎日、あなたがふつう手段として扱う一つのことを選び、散歩、皿洗い、一曲といったものに、わざと結果を結びつけず、その質感だけに留まる。水温、リズム、音の厚み。
- 「評価」の代わりに「描写」を用いる。 事の中途で、「目標まであとどれだけか」と急いで問わず、まずいま見えていること、手の感じを描写する。描写は注意を現在へ押し戻す。
- 節目を小さくする。 「完成」だけを待って自分を褒めない。小さな一歩の前進も、一つのつかえた点がほどけたことも、感じられていい。
- 「回り道」も進みとする。 試行、休止、方向転換は、結果からそれることではなく、過程そのものです。
以下の表に二つの構えを並べました。いまのあなたがどちら側にいるか、照らし合わせてください。
| 過程を手段とする | 過程を過程とする |
|---|---|
| 事をしながら、心は結果にある | 事をしながら、注意は手にある |
| 中途の迷い=無駄 | 中途の迷い=手探り |
| 着いてようやく喜んでいい | 進みそのものが感じていい |
| 止まれない、遅れを怖がって | 止まれる、自分が歩いていると知っているから |
おわりに
過程を楽しめないのは、あなたがどこか壊れているからではありません。環境に、比べ合いに、効率に、鍛えられた癖なのです。それはかつてあなたを「到着」させたこともありました。代償は、着いたのに、あまり「そこにいた」ことがなかったことでした。
一晩でゆっくり暮らす達人になる必要はありません。小さな一つのことから始めましょう。「いま」を手段の位置から降ろし、もう一度、あなたが本当に居る場所にする。それで十分です。簡易に、つまらないことほどまず味わってみる。そこから、過程はまたあなたのものになっていきます。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。