なぜいつも人を喜ばせようとしてしまうのか
DustEcho編集部

同僚が何気なく「これちょっと見てくれる?」と聞いてきたとします。手元にはもうやることがいっぱいなのに、脳が追いつく前に口が「いいよ、任せて」と答えています。電話を切ってから気づくのです。また、本当は引き受けたくなかったものを引き受けてしまった、と。その日の午後はずっと重く、自分でもあのモヤモヤが相手へのいらだちなのか、自分への苛立ちなのかよくわからなくなります。
これを「私はただ人が良いだけ」と片づけたくなりますが、その説明はたいていもっと正直な何かを隠しています。人を喜ばせようとする癖は、性格でもなんでもなく、ずっと昔から走り続けている生き残りの戦略であることが多いのです。根っこにあるルールはこうです。相手を喜ばせれば私は安全、相手が眉をひそめたらそれは私のどこかが間違っている、と。この回路を何年も回していると、いつしか「讨好型人格」、読み方は「ていこうがたじんかく」と呼ばれる癖として体に定着していきます。
人を喜ばせることは優しさなのか?
本当の優しさは、落ち着いた場所から始まります。まず自分を整えてから、それから手を差し伸べるものです。しかし人を喜ばせようとする人は、この順番を逆に回すことが多いのです。自分の気持ちはいちばん後回しにして、相手の感情を真っ先に受け止めます。外から見れば両方とも「はい」と答え、両方とも手伝うので行動はそっくりですが、下で回っているエンジンが違います。助けるのは自らの意思から出てきます。喜ばせるのは恐れから出てきます。嫌われることへの恐れ、遠ざけられることへの恐れ、断ればその関係を失うのではないかという恐れです。あなたは与えているのではなく、保険を買っているのです。
この違いは大切です。直し方が変わってくるからです。優しさを減らす必要はありません。恐れているものが何か、そしてその恐れが今のあなたの暮らしにまだ合っているかを確かめればいいのです。
どうやってこの癖は身についていくのか?
喜ばせる癖は、生まれつきのものであることはほとんどありません。もっと多いのは、早い時期の環境があなたにその交換を教え込むことです。必要なことを言っても応えてもらえない、感情を出すことは許されない、良い子で分かりやすく、相手を気持ちよくさせる自分だけが好かれる資格がある、と。そこで小さなうちにあなたは取引のやり方を覚えます。私が自分を小さくしておさめば、あなたが私を受け入れてくれる、と。子どもの頃なら、その取引は周りの関係を生き延びるのに本当に役立ったかもしれません。
困ったことに、神経のシステムは十八歳を過ぎたからといって古い手引書を引退してはくれません。その理屈は、自動的な反射として体に残ったままなのです。誰かが口を開いた瞬間、あなたはもう相手を喜ばせられるかを探り始めています。それは決断ではありません。考えよりも深く刻まれた癖なのです。頼みごとを最後まで聞く前に「はい」と言ってしまっている自分に気づいたら、それは弱さではありません。ずっと昔に書かれたプログラムが自動操縦で走っているだけなのです。
言葉にして断ったあと、なぜ罪悪感が追ってくるのか?
これが人を一番くたびれさせる部分です。思い切って「いいえ」と言い、数秒もしないうちに罪悪感がやってきます。まるで断ることが小さな害でも及ぼすかのように。でもあなたが断ったのは、断ってもよかったたった一つの具体的な用事であって、その人そのものではありません。しかし体はもっと古い帳面を覚えています。子どもの頃に「いいえ」と言えば冷たい顔をされたかもしれないので、今「いいえ」と言うと体が先に慌て、あとで理性がついてくるのです。
その罪悪感は、あなたが間違ったことをした証拠ではありません。あなたの体が、もうほとんど消えた危険の古い手引書をまだ回している証拠なのです。名前をつけるだけで、その電荷のいくらかを抜けることがあります。私は境界線を持ったからといって悪い人間ではない、ただ体がすでに去った危険を覚えているだけだ、と。
もっと喜ばせようとすると、なぜ関係が遠のくのか?
筋が通らないように聞こえますが、これはいつも起きています。あなたはずっと同意し、自分の不満を見えないところにしまい込むので、相手は本当のあなたに会えません。意見も角もないあなたというバージョンにしか出会えないのです。関係が一番大事にできるもの、つまりあるがままのあなたとして見られ、大事にされるという部分が、育つ機会をまったく得られません。喜ばせれば親密になれると願ったのに、手に入ったのはどちらも越えられない距離でした。
この動きの中で、いくつかの癖が何度も現れます。
- 相手が何か言う前に、その人がどう感じているかを先に当てている。
- 頼みを断ったあと、自分は間違ったことをしていないと長く自分をなだめる。
- 疲れているのに、それでも「大丈夫、私がやる」と言ってしまう。
- 気まずい空気になるくらいなら、自分の不快感を飲み込んでしまう。
- 誰かが自分の面倒を見てくれたとき、まず落ち着かなくなって、お返しを急ぎたくなる。
これらのいくつかが当てはまるなら、あなたは「人が良すぎる」のではありません。ただ喜ばせることを、人と付き合うときの初期設定にしてしまっているだけなのです。
私の願いは、相手の荷物になるのか?
喜ばせる人が、どの言葉よりも足を止められる一文があります。「私には願いがある、でもそれを口にできない」です。まるで自分を表すことが、誰かに負担をかけることでもあるかのように。でも関係は双方向に流れます。願いをずっと飲み込み続ければ、相手もまた本当のあなたには手が届きません。口にする意志は、その絆への重荷というより、もっと近づくための招きなのです。
別の人間にならずに変われるのか?
人生を取り戻すために、劇的な反逆を演じる必要はありません。変化は、ほとんど見えないほど小さく始められます。次に「はい」と言おうとしたとき、三秒だけ止まって問いかけてみてください。私は本当に引き受けたいのか、それとも相手をがっかりさせるのが怖いのか、と。その三秒だけでも、自動操縦から少しだけ主導権を奪い返したことになります。境界線とは、人を締め出すための壁ではありません。ついに自分の代わりに一言を言う気になった、ということなのです。
喜ばせる癖は、あなたの性格の欠陥ではありません。それは、あなたが大切にしてきたもの、人への思いやりや気づかいから育ちました。今の仕事は、そのどれかを捨てることではありません。同じ良さを、少しずつ自分にも向けることを覚えることなのです。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。