なぜ私はいつも〜すべきと口にするのか
DustEcho編集部

一日に自分にどれだけすべきと言うだろうか。早く眠るべき、彼女のメッセージに返すべき、親にもっと辛抱強くあるべき、あのプロジェクトをもう一歩進めるべき。これらのすべきは背後に監督のように立っている。動かなければ、咳をして知らせる。休みたくないわけではない。休んだ瞬間にすべきが飛び出し、あなたは足りない、と言う。
病的に規律があるわけではない。すべきがあなたの人生を生きすぎたのだ。本当に望むものがほとんど聞こえない。
すべきで埋め尽くされたリスト
すべきはどんな姿か。いつもしなければならない、という口調だ。運動するべき、さもなくば体が崩れる。社交するべき、さもなくば人に忘れられる。感情を安定させるべき、さもなくば未熟に見える。どの一行も今の私は足りない、という穴を埋める。
リストは長くなり、あなたはより疲れる。いちばん不思議なのは、リストの多くを楽しくないのに、やらないと落ち着かないことだ。あなたはスケジュール通りに動く機械になった。表示灯はついているが、人は空っぽだ。
もっとまずいのは、すべきを使って他人に求めることだ。あなたは私を分かるべき、自発的であるべき、もっと向上心があうべき。関係にこの物差しを据えれば、相手が一寸足りないごとに失望が一つ増える。だがその物差しは、あなたがこっそり定めたのだ。
すべきを誰が押し付けたか
多くのすべきは、ずっと前に他人があなたのために書いた。親はいい子は従順だと言い、先生はいい子は言うことを聞くと言い、世間は三十で一人前になるべきだと言った。子どもだったあなたに反論する力はなく、その言葉を体にしまい込んだ。大人になってもそれが自動再生され、私はもともとそう思っていた、と思う。
すべきを使って安心を得る人もいる。不確かな世界で、正しいことをするのはコントロールできる感覚だ。努力するべき、倹約するべき、格好つけるべき。従っていれば取り残されない。だがすべきが唯一の道標になると、どこへ行きたかったかをとっくに忘れる。
もう一つの層がある。私は愛されるに値する、が不確かだと、私は十分にすべきだ、で承認を得ようとする。期待に合うほど、私は受け入れられていると信じる勇気が出る。あなたは自分を生きていない。愛されるに値する版本を演じているのだ。
すべきがしたいに取って代わったとき
一番惜しいのは、したいがゆっくり声を失うことだ。散歩したいのに、すべきが読めと言う。断りたいのに、すべきが助けよと言う。休みたいのに、すべきが若いうちに稼げと言う。時が経てば、本心か反射かを見分けられない。
また、疲れて空っぽにもなる。リストを終えても地固めを感じない。その達成感は借り物だからだ。他人の望んだことをやったのであって、愛することをやったのではない。空っぽなのは、あなたが入っていないからだ。
もっと深い代償は関係の疎遠だ。いつもすべきの中にいる人は、誰かと本当に近づけない。あなたは正しすぎ、分別がありすぎる。他人はかえってあなたを普通の人として扱う勇気がなくなる。規則には勝ったが、親しみを負けた。
リストを軽くする
一度すべきの普查をしてみよう。今日浮かんだすべきを一つずつ書き出し、問う。これは本当に私の望みか、それとも誰が押し付けたか。答えられないものは、まず消す。リストが短いほど、呼吸は楽だ。
また毎日、ただしたいからやる小さなことを一つ残そう。食べたいときに食べ、ぼんやりしたいときにぼんやりする。理由はいっさいなし。したいを、小さくてもまた育てる。
すべきがまた鳴ったら、すぐ従わずに三秒止まり、問おう。これをやらなければ天が落ちるか。たいてい、落ちない。
おわりに
すべきは敵ではない。先人が残した道標だ。役立つものもあれば、とっくに期限切れのものもある。捨てることではなく、ハンドルを自分の手に取り戻すことだ。
すべきに押される人は、どれだけ遠くへ行っても他人の方向だ。覆い隠された声に耳を澄ませてみよう。かすかでも、それはあなた自身の声だ。リストには本当に望む数行を残し、残りは他人にすべきと言わせよう。あなたの人生に、全部にチェックを入れる必要はない。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。