通関:ふたつの力がぶつかりあい、あいだに橋がない
DustEcho編集部

八字の体系のなかで、「通関」は許可証でもなければ、名詞ですらない。それはひとつの解法だ——命式のなかでふたつの五行の力がぶつかりあい、にらみあったまま動けなくなったとき、第三の元素をあいだに持ちこんで仲立ちさせる。衝突を流通に変え、たがいを傷つけあう関係を、たがいを活かしあう関係にする。それはまるで、ことばの通じないふたりのあいだに座った通訳者のようだ。対峙を対話に変える存在。ここでは「どうやって通関するか」は語らないし、誰かの命式を読み解くつもりもない。ただ、「こころのなかでふたつの力がずっとせめぎあっていて、あと一歩、あいだから誰かが手を差しのべてくれれば」という体験について話したい。あなたは分裂しているのではない。その橋が、まだ誰にも架けられていないだけだ。
ふたつの力、どちらも譲らない
通関の前提は、そもそもふたつの力が正面衝突していることだ。それはあなたのなかの「負けずぎらい」と「もう横になりたい」かもしれないし、「ひとにやさしく」と「じぶんにきびしく」かもしれないし、「ルールを守る慎重さ」と「もうどうにでもなれ」という衝動かもしれない。どちらか一方だけを見れば、べつにおかしな力ではない。けれどもそれらは、ひとりの同じ人間の、同じひと区切りの日々のなかで、同時に正反対の指令を出してくる。あなたは両端からふたりの人間に引っぱられている一本の縄のような気分になる——縄が弱いのではない、引っぱる手が多すぎるのだ。ある友人は言った。会社で一日じゅう同僚に笑顔をふりまいたあと、夜は家に帰ってからひと言も口をききたくなくなる、まるで八時間ぶん絞りつづけた濡れ雑巾みたいだと。彼は偽っているのではない。彼のなかの「あわせる」と「ひとりでいる」が、ずっと綱引きをしているのだ。あわせるほうが昼を制し、ひとりでいるほうは夜を守りきれず、そうして人は漏れてしまう。
膠着がつづくと、勝ち負けより疲れがこたえる
ふたつの力が長いあいだにらみあったまま動かないと、人は壊れはしないが、すっかり中身をくりぬかれてしまう。金が木を伐り、水が火を消す。ぶつかるたびに、なにかが消耗していく。通関のもっともにがい局面は、どちらかに負けた瞬間ではない。両方の力が拮抗して、どちらも一歩も引こうとしない、あの時間だ——あなたのからだは、引きもしなければ巻きもできない弓になり、弦は張りつめているのに矢は放たれない。あなたはなにもしていないのに、一日じゅうレンガを運びつづけたような疲れを感じる。その疲れがどこから来るのか、じぶんでもわからない。肉体労働ではないからだ。ふたつの力があなたのなかで八時間ぶんの喧嘩をし、あなたはただそばで審判をしているだけだ。笛は一度も吹けない。ひとから「なんでいつも元気ないの」と言われても、答えられない——「じぶんとじぶんが喧嘩して、負けてもじぶん、勝ってもじぶんだから」なんて、口にできるはずがない。この疲れは外からは見えないし、じぶんでもうまく説明できない。それは骨の奥にこもった鈍い消耗で、痛くはない。ただ重い。
足りないのはどちらかの勝利ではなく、あいだに立つ人
ふたつの力が喧嘩しているとき、たいていの人が考えるのは「どちら側につくべきか」だ——もっと強く出るべきか、それとももっと力を抜くべきか。もっとがんばるべきか、それとも少し休むべきか。だが通関が示す方向はちがう。どちらかを選ばせるのではなく、「あいだに立つ人」を見つけさせるのだ。あいだに立つ人とは、第三者でもなければ、うやむやにして丸めこむだけの仲裁役でもない。それは、ふたつの力をひとつに編みなおす「第三のなにか」である。金と木がぶつかるとき、水が入れば、金は水を生み、水は木を育てる——殴っていた拳が、やわらかく花に水をやるじょうろに変わるのだ。通関はどちらかを消し去るのではない。ふたりの対戦相手のあいだに、歩いていける道を一本、つけくわえるのだ。多くの人は生涯、二択のなかをぐるぐる回りつづける——やるか休むか、堪えるか爆発するか——そして、「そもそも選ばなくていいのかもしれない」「両端の勢いを真ん中で受けとめてつなぐ、ひとりの翻訳者がいればいいのかもしれない」と思いいたることがない。その翻訳者はべつに大物である必要はない。一つの習慣だったり、口癖だったり、爆発するまえにコップ一杯の水を飲む、という動作だったりする。この一杯の水をあなどってはいけない。それは、金と木のあいだに流れはじめた、まだ誰にも見えていない小さな水路かもしれないのだ。
その橋は遠くにあるのではなく、日常のすきまにある
通関に必要な第三の力は、多くの場合、なにか仰々しいものではない。転職でもなければ、誰かと別れることでもなければ、引っ越して心機一転やりなおすことでもない——それはたとえば、毎日の仕事が終わったあと、家のドアを開けるまえに、車のなかでたった三分、座っているだけのことかもしれない。この三分のあいだに、昼の自分と夜の自分がハンドルのまえで顔をあわせ、感情の引き継ぎをする。べつにむずかしい話ではない。けれども、この三分があることで、「一日じゅう誰かに笑顔をふりまいてきた人」と「家にもどったらひと言も口をききたくない人」が、玄関先で正面衝突せずにすむ。通関とは、こういうちいさなもののことだ——ふたつの力のあいだに差しこまれたすきま。広くなくていい。水が通りぬけられるだけの幅があればいい。あなたがつくっているのは海をまたぐ大橋ではない。ふたつの石のあいだに、一本の小枝を渡しているのだ。小枝は太くなくていい。一本の水草がぷかりと流れていけるくらいで十分だ。流れていけば通関、流れなければ膠着。膠着したまま放っておくと、やがて淀んで臭いはじめる。けれども、あいだをひともとの水が動いただけで、全体がふたたび生きて動きだす。その小枝は、あなたがじぶんで置いたものかもしれないし、ある日ふと、だれの気づかぬうちにそこに落ちていたものかもしれない——大事なのは誰が置いたかではなく、ようやくそこにある、ということだ。
誰かを消す必要はない、ただ歩ける道があればいい
もう一度、通関そのものに立ちもどろう。通関のいちばんやさしいところは、どちらの側も評価しない、という点にある。金が硬すぎるとも言わないし、木が脆すぎるとも言わない。ただ、「きみたちのあいだには、まだ一本のすきまがあるよ」と言うだけだ。そのすきまこそが、あなたの歩ける道だ。じぶんをちがう人間に変えようとしなくていい。なかの「休みたがっている自分」を叱りつける必要もなければ、「がんばろうとする自分」を祭りあげる必要もない——ただ、あのふたつがまさに喧嘩をはじめようとした瞬間に、するりとあいだに入り、ちょっと立って、「まあ待て、ここに道がある」とひと言つぶやけばいい。その道は長くない。書斎からベランダまでの数歩かもしれないし、画面を裏返しにして十秒だけ目を閉じることかもしれないし、鏡のなかのじぶんに「今日はまあまあだった」と声をかけることかもしれない。英雄譚ではないし、人生の転機でもない。ごくふつうの人間が、じぶんとじぶんの喧嘩がいちばん激しくなった日に、ふと手を止め、水をひと口飲み、それをきっかけにふたつの力がその水に乗って一緒に流れはじめる——ただ、それだけのことだ。流れていったのは勝者ではない。ふたつの力がひとつに溶けあったものだ。ぶつからず、押しあわず、ただ静かに、おなじ方角へと向かっていく。その方角がなにかの「すごい場所」に通じているとはかぎらない。けれどもそれは、喧嘩のない夜へと通じている。
すこし現代ふうに言うと
心理学のことばを使うなら、通関とは「内的葛藤における第三者的調停」に似ている。ひとのなかでふたつの矛盾する欲求や衝動が長期にわたって対峙しつづけるとき、意志力でどちらか一方をえらびとることは多くの場合、消耗をさらに深めるだけだ。じっさいに効果のある解消法は、両方を同時に受けとめられる中立的な中間変数を導入し、相互排除を相互補完へと組みかえることにある。これは妥協ではなく、統合だ。「やる」と「休む」のあいだに「リズムのあるゆるみ」を入れこみ、「堪える」と「爆発する」のあいだに「境界をもった表現」を入れこむ。通関が求めるのは、より強い自分ではなく、よりしなやかな自分だ——張りつめた二本の弦のあいだに、それらを共振させる第三の弦を見つけること。その第三の弦は、持って生まれたものではない。なにげない帰り道、なにも考えていなかったはずの時間に、ふと指先がふれたものだ。ふれた瞬間、あなたはその名前を知らないかもしれない。けれども、わかるはずだ——今日から、なかのふたりは、もう喧嘩しなくていいのだと。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。