官殺混雑:胸のなかにふたりの監督がいて、それぞれちがうことを言う
DustEcho編集部

命理の十神の体系において、「官」は正官、規整された拘束、秩序、社会からの期待、責任を司る。「殺」は七殺、偏官とも呼ばれ、突然の圧力、挑戦、対抗、定石を外れる気質を司る。官殺混雑とは、この二つの拘束力が同時に命局に現れることを言う。ひとつは規律を守れと、ひとつは力ずくでぶつかれと、まるで胸のなかにふたりの監督が住みついたよう、片方が定規を握り、片方が鞭を握り、それぞれちがう号令をかける。ここでは吉凶を語らず、どう「取清」するかも教えない。ただ「二つの基準に同時に引かれる」体験を浮かび上がらせたいだけだ。目の前にあるのは、どちらも筋の通った二枚の地図、けれどその行き先は、おなじ場所ではない。
ひとりは「おとなしく」、もうひとりは「突っ張れ」と言う
官殺混雑でいちばん削られるのは、「基準の喧嘩」だ。正官は言う、時間を守れ、礼儀を尽くせ、きまりに沿ってやれ、仕事を美しく仕上げよ。七殺は言う、引くな、突っ込め、まわりの目など気にするな。だからおなじ日のなかで、会議では礼儀正しく備忘を取り、くるりと背を向けば筋の問題で卓を叩く。まわりには穏やかかと思えば暴れる、気難しいと映る。けれど本人にはどちらが「正しい」のか、さっぱり分からない。信念がないのではない、信念が二組の体系でそれぞれ半分ずつ書かれているのだ。半分は「堪えろ」、半分は「打て」、くっつかない。夜ふけ、寝返りを打ちながら、今日のあの一撃は、七殺が代わりに本音を叩いてくれたのか、それとも正官がもう悔やみ始めたのか、と。
きまりと野性が、おなじ手綱を引っ張り合う
官殺混雑のからだには、いつも緊張が張り詰めている。二本の手綱にちがう方向へ引かれる馬のような。正官は正道へ導く、よい学校に入れ、よい勤め先に就け、体裁のよい者になれ。七殺は野良道へ引っ張る、飼い慣らされるのがいやだ、なにかを壊したい、ひとがためらうことを試してみたい。努力していないのではない、努力の姿勢が「服従」と「反逆」のあいだで絶えず行ったり来たりするのだ。朝はきっちり精算書を埋め、午後には辞めてなにか当てにならないことをやりたくなる。いちばんつかれるのは働くことではない、働きながら頭のなかで声がするのだ、「これでいいのか、ちがうやり方のほうがよかったのではないか」と。二本の手綱は首を食い込む、けれどどちらも離したくはない。
気分屋ではない、二つの力に代わる代わる推されている
身近にいる者は、官殺混雑のひとは「機嫌が変わりやすい」と思う。だが気分屋ではない。内なる駆動力が、最初から一本の直線ではなかったのだ。正官がひと押しして、落ち着いて、慎ましく、他者に面目を立てさせる。七殺がひと押しして、危険を冒し、壁を破り、自分に面目を立てさせる。二つの力が代わる代わる出てくるから、状態も揺れる。正官の番には古参の役人のような顔つき、七殺の番には異端のような顔つき。つらいのは、二つの力そのものではない。それらが一度も相談しないことだ。正官が「もう少し堪えろ」と言う、七殺はもう後ろから蹴っている。板挟み、二方向から同時に号令のかかる兵、どちらへ走っても咎めがあり、しかもその咎めは、すべて自分から出たもの。自分が出した咎めはいちばん消えにくい、責める者と責められる者が、おなじ口を使っているから。
どちらの道も通じる、けれどまずどちらかを選ばねばならない
官殺混雑は「選べない」のではない、「どちらの道も正しく見える」のだ。他の者は一本道を歩み切る、この者は分岐点に長く立つ。迷っているのではない、二つの道それぞれの理が見えるからだ。おとなしく、水も漏らさぬ仕事ができる。闊歩して、場をひっくり返すこともできる。問題は、二つの可能性とも手が届くところにあり、「ひとつに決める」がとりわけ骨の折れることになる。ひとつを選ぶことは、もう一方の道にいる自分に別れを告げることにほかならない、それは自分の半分を自分の手で摘み消すような感覚だ。けれど道は、所詮、歩かなければ開けない。七殺を殺せとも、正官を馴らせとも言わない。学んでほしいのは、地が必要なときは正官にしばし舵を、飛び込むべきときは七殺に勢いを。ふたりの監督は一生喧嘩しなくてもいい、たぶん必要なのは、ひとつの当番表だけ。表は複雑でなくていい、午前一欄、午後一欄、書き込めば、ふたりとも納得する。
分裂ではない、ただ二つの力がどちらも本物すぎる
官殺混雑は「裏表がある」「分裂している」と誤解されやすい。だが二つの顔があるのではない、おなじ器のなかの二つの燃料だ。正官の燃料は静かに長く燃える、長い道に向く。七殺の燃料は猛烈に短く燃える、急な坂に向く。歩むべき道は、もとより長い平地と急な坂を併せ持つ山だ、静かなところは正官を、急なところは七殺を要る。仮面が多いのではない、道そのものが二つの歩き方を求めるのだ。他の者は切り替えを見るだけ、そのたびにからだのなかで部品をそっくり組み直していることは知らない。切り替えの速さだけを見て、おなじ炉のなかで二つの燃料がどれほど焼きつくすかは見えない。けれど山を越えた者はみな知る、坂のための薪と平地のための薪は、もとよりおなじ一本であるはずがない。
ふたりの監督に、ひとつの当番表を
官殺混雑そのものに戻る。病気ではない、治す必要もない。ふたりの監督は怖くない、怖いのは、彼らが決して腰を下ろして話し合わないことだ。官殺混雑のいちばん地に足のついた課題は「ひとつを選ぶ」ことではなく、二つの声にそれぞれ縄張りを区切ることだ。地が要るときは正官に上座を、飛び込むときは七殺に声を預ける。ひとつにするのではない、交代で出るようになればいい。規律を守りながら血気を失わない、闊歩しながら底線を失わない、それはできる。この二つの力は仇同士ではない、ただまだ机が据えられていないだけだ。机が据われば、定規と鞭はおなじ卓上に置かれ、それぞれの持ち場を守る。机ひとつ、ふたり掛け、足りなければ椅子をもう一脚。椅子は立派でなくていい、脚が四本、背もたれがついて、凭れればいい。
いまの言葉で言えば
心理学の言葉を借りれば、官殺混雑は「二重拘束型の動機づけ葛藤」に近い。「規範に服従せねばならない」と「圧力に対抗せねばならない」という二つの駆動力のあいだで絶えず揺れるとき、その者の意思決定の体系は長く高い認知的負荷のなかに置かれる。純粋な妥協を信じきれず、純粋な対抗も恐れる。こうした者は往々にして常人より高い状況的感受性を備える、規則と、それを破る道の両方が同時に見えるからこそ、かえって選びにくい。立て直しの鍵は「片方を削ぐ」ことではない、場面による切り替えの柔軟さを養うことだ。ちがう場面でちがう駆動力を差し向け、この柔軟さは偽善ではなく、現実の世界を生き抜くための腕前だと信じることだ。半分を削いで残り半分を成す必要はない、必要なのは、ふたりの自分に、茶碗を置ける机をそれぞれあてがうこと。机は大きくなくていい、茶が二杯分置ければ、それで十分。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。