勢いに乗る 風に逆らうより、身を返して風の力を借りよう
DustEcho編集部

子どもの頃、凧を揚げた。風の弱い日は、走れば走るほど糸が張りつめ、凧は微動だにしない。そばで見ていた年上の人が言った。風に向かって走るな、体を返して、風の来る方へ二歩下がれ、と。下がったとたん、風が紙を支えて、凧は自分の力で上がった。あの時、初めてぼんやりと順勢という二文字の意味を知った。
順うのは運ではなく、その力である
道家は順勢を説くが、順うのは決して運命ではない。順うのは物事のもともとの向きであり、すでに動き出したその力である。水は低きに流れようとする。平地に堰を築いてそれを阻もうとすれば、一時は止められても、いつまでもではなく、しかも自分をへとへとにする。しかし溝を掘って、水を行きたい場所へ導けば、それが順勢である。水に勝ったのではない、水の力を借りたのだ。
順勢を何もかも天に任せることと勘違いする人が多い。違う。天に任せるのは自分を差し出すことだが、順勢は外のその力を受け取り、自分の助けに変えることだ。一方は崩れ落ちること、もう一方は借りた力で舞うこと。その間には、主体の距離が一つある。
風に逆らって歩く人
周りには風に逆らって歩く典型がいる。会社の方向が明らかに変わっているのに、古いやり方にしがみついて最後まで張る。関係がすでに冷めているのに、ますます頻繁に問い詰めて相手を締め付ける。体がすでに警報を鳴らしているのに、珈琲と意志力で押し通そうとする。努力していないわけではない。努力の向きが、その力とねじれているのだ。
この種の押し通しは、短期的には燃えるように見えて、長期的にはまったくの内耗である。前に一歩進むごとに、風が半歩後ろへ押し戻すから、純粋な効率は負になる。さらにまずいのは、押し通す人は苦労を正しさと取り違えやすいことだ。これほど疲れたのだから、きっと正しいだろう、と。苦労と正誤は、たいてい関係がない。
水は低きに、人も勢いを借りるべし
道徳経には上善若水とあり、また曲則全、枉則直とも説く。曲がればこそ全うされ、枉げればこそ直る。これが言っているのは、その力と正面からぶつかるな、ということだ。東へ行きたいのに風は西から来る。突っ切るのは愚かである。まず南か北へ回り、地形と風向きを借りれば、かえって早く着く。
順勢は遠回りするのではない。力が助けてくれる道を歩くのだ。同じ場所へ行くにしても、風に逆らって十里歩くのと、風に乗って十里歩くのとでは、消耗が倍も違う。賢い人は直線距離ではなく有効距離を算する。一里のうち、幾歩を風が代わりに歩いてくれたか、である。
身を返す方が、張り付くより楽だ
順勢で一番難しいのは、その身を返す動作である。人は一度方向を決めると、引き返すことはこれまで全部が間違いだったと認めるようで、面目が立たない。しかし本当に力を借りる人は、誰より早く身を返す。風が違うと見るや、すぐに手を緩めてコースを変え、自分と張り合わない。
その裏には、ゆったりとした自信がある。目標は変わっていない、ただ道が少し譲っただけだ。譲ることは卑怯ではない、風の吹く向きをはっきり見たということだ。死に張りする人こそ本当に危ない。彼は方向を信じているのではなく、見誤ったと認めるのが怖いのだ。
順勢は投機ではない
線を引かねばならない。順勢と投機は違う。投機は得になる方へなびくだけで、自分の重みを持たず、風の吹く方へ真っ先に落ちる葉である。順勢の人は胸に分度がある。どこへ行くか分かっている、ただ今の風に乗って一筋行くだけだ。
定見のある人が順勢すれば、ますます近づく。定見のない人が順勢すると称すれば、ますます流されて遠ざかる。違いはその自分がどこへ行きたいかを考え抜いたかにある。考え抜けば、力を借りるのは知恵。考え抜かねば、力を借りるのは波に任せることだ。
関係の中で力を借りる
順勢は物事をなすだけでなく、人と接するにも使う。説得すればするほど頑なになる人がいる。君が一歩下がると、彼は自分で気づく。これは手管ではない、相手のその力を尊重することだ。誰の心の中にも、自分なりの理が巡っている。結論を押し込めば、彼は本能的に突き返す。間を空けて、自分でそこへ回り着かせれば、彼はそれを自分の考えだと感じる。
良い対話は、しばしば凧のあの一瞬のようだ。引くのではなく、手を離して風に支えさせる。君が差し出すのは答えではなく、彼が自分で上がれる角度である。
その力を見極めるには静けさが要る
順勢の前提は、まずその力がどこへ流れるかを見ることだ。しかし多くの人は突進に忙しく、見る暇がない。風はすでに変わったのに、彼は古い方向へ猛ダッシュし、汗をかいて、それでも道がでこぼこだと文句を言う。
勢いを読むには静かでなければならない。凧を揚げる前に風の来る方を感じるように、行動する前にも三秒止まって、自らに問う。今のこの局面で、力はどちらへ向かっているか、と。業界が起きているのか、人の心が変わっているのか、関係が緩めるべき節目に来ているのか。これらの合図は音を立てない。静まって初めて受け取れる。慌てるほど勢いが見えず、静かなほど力を借りられる。
順勢にもブレーキが要る
力を借りることは、まっすぐ突き進むことではない。水は坂を楽しげに流れるが、崖に遭えば滝になることを知り、砕けても曲がり道を探す。まっすぐ落下して粉々になることはしない。順勢の人にも、そのブレーキ線が要る。
勢いにあまりに遠くまで連れて行かれると、自分がどこへ行くつもりだったかを忘れやすい。勢いが最も強い時こそ、問うべきだ。この力は私を目標へ連れて行くのか、それとも別の場所へか、と。収めるべき時は収め、飛び降りるべき時は飛び降りる。真の順勢とは、借りられ、また止められることだ。借りるだけで止められぬは、巻き込まれることと呼ぶ。
勢いもまた人を欺く
一つ防備を付け加えねばならない。動いているように見える力すべてが借り値打ちがあるわけではない。中には泡であり、風穴が吹き上げた騒ぎであり、それに乗れば、張り付くよりもひどく墜ちる。数年前、何が熱ければ何に群がり、岸に残った者はわずかだった。それが例である。
真の勢いと偽の勢いを見分けるのは、その静けさのおかげだ。真の勢いには根がある。需要であり、人の心であり、物事の脈絡が動いていることだ。偽の勢いには音量しかない。潮が引けば正体が現れる。順勢の人は目を閉じてむやみに借りることはせず、まずその力に底があるか触れて確かめる。真の勢いを借りるのは知恵、偽の勢いを借りるのは付和雷同である。二つは、一人の覚めた人だけ隔てている。
小さな勢いも借りよ
大風大波を待ってから順勢を思い出すな。日々の小さな勢いも借り値打ちがある。同僚が今日は機嫌よく、その勢いに乗って言い出しにくいことを持ち出す。自分の調子が上がっていて、その勢いに乗って長く引きずった仕事を片づける。小さな力に乗って歩けば、一日でずいぶん張り付く分が減る。
多くの人は一切に張り付くか、さもなくば寝そべるかであり、その間の小さな勢いを借りる道を歩く者がいない。しかし日常はまさにこれらの小さな勢いで連ねられている。借りるほど張り付くが減り、全体の消耗が下がる。大勢いが読めぬ時は、目の前の小さな勢いを順うところから始めよ。それもまた一つの稽古である。
今日借りられる一陣の風
大風大波を待たずとも順勢を思い出せる。今日にも稽古する小さなことがある。君がずっと張り付いている一事、誰かとの冷たい無言かもしれぬ、なかなか動かぬ課題かもしれぬ。まず力を加えるな、まずその力がどちらへ流れるかをはっきり見よ。
そして自らに問う。その力が私の代わりに一筋歩いてくれる道はないか、と。身を返し、二歩下がり、風に紙を支えさせよ。順勢の妙はまさに此処にある。君は余計に力を入れなかったのに、事はみずから前へ進んだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。