水:いちばん柔らかいもの、いつでも隙間を見つける
DustEcho編集部

道徳経のなかで、水はほかのどんな比喩も届かない場所まで持ち上げられている。最高の善は水のようだ、という言葉がある。いちばんすぐれた徳は水のように、低いところへ流れ、万物を育み、だれとも争わない。易経のなかでは、坎の卦が水をあらわす。坎は危険をあらわすとともに、知恵もあらわす。水の賢さは鋭さにあるのではなく、回り道を知っているところにある。五行のなかで水は知恵をつかさどり、流れと、浸透と、通じることにかかわっている。だから昔の人が水を見るとき、柔らかさそのものを見ていたのではない。あれほど長く柔らかかったのに、結局は勝っていた、そのことを見ていたのだ。
水は石とぶつからない
こういう場面をあなたも見たことがあるはずだ。二人が衝突して、一方がどうしても正誤を決めようとして、声がどんどん大きくなる。もう一方はその勢いに乗らず、それを避ける。しかし用は落とさない。しばらくしてから、別のやり方で用を済ませる。後者のそのたちまわりこそが、水である。
水が石にぶつかるとき、そこに立って石と突き合うことはしない。回る。回り込むか、ゆっくり染み通るか、あるいは待つ。石の角はいつか必ず丸く磨かれる。これは卑屈ではない。水は勘定をよく知っている。正面からぶつかれば痛いのは自分だし、石がそのぶん角を失うわけでもない。回り込めば、道は残るし、目的も失われない。
暮らしのなかで、あなたと口げんかはしないが、それは同意したという意味ではない、別の道をとって用を済ませる、そういう人にこそ、この水のようなたちまわりがある。彼は口の上の勝ち負けを争わない。事が本当に済んだかどうかを争うのだ。あなたが彼と言い合って自分が勝ったと思っても、振り返ると事はやはり彼の進めた方向へ動いている。これこそが水の本当に恐ろしいところだ。彼は口で勝ち、水は事で勝つ。結局どちらが得をしたか。水はあなたとこの勘定をすることはない。なぜなら、とっくに遠くへ行ってしまっているからだ。
いちばん低いところへ行くのは、負けではない
水でもっとも道理に反する点は、低いところへ流れることだ。
だれもが高いところへ殺到しているとき、水だけは逆へ向かう。これは不出来なのではない。道徳経ははっきりと言っている。水は低いところへ流れるからこそ、川や海になれるのだ、と。低いところはだれも行きたがらない場所だが、水はそこへ行き、そうした場所をすべて自分のものにする。
これを人にあてはめれば、だれもやりたがらない仕事を引き受け、だれもが面倒だと避ける用を辛抱強く筋道立てて片づける、そのようなたちまわりになる。ほかのことができないわけではない。彼は知っている。だれも腰を屈めて拾おうとしないものを集めれば、それがだれにも奪えない土台になるのだと。水のような人は、たいてい最後にいちばんしっかり立っている。根を、だれも見くびった低い場所に張っているからだ。ほかの人が気づいたときには、彼はもう低地全体を収め終えている。低い場所にはもう一つ利点がある。だれも奪い合わないのだ。高いところにいれば、四方八方が敵だ。低いところにいれば、静かに自分のものを蓄え、浮いた力がすべて底力になる。
入れた容器の形になる
水には、ほかの元素には及ばない一つの能力がある。自分の形を持たない、ということだ。
杯に注げば、杯の形になる。谷へ流れ込めば、谷の形になる。それを主体性がないと言うか。違う。形と張り合わないだけだ。水の原則は外形ではなく内実にある。どんな容器に入れられても、下へ流れ、低いところへ集まり、少しずつ染みていく、その一点は一度も変わったことがない。
この性質を暮らしに当てはめれば、どんな環境に入ってもそれに合わせられるが、胸の内の糸は切れない、そういう人になる。あなたとでも話が合い、あちらとも話が合う。それはこまやかさではない。形を場に譲り、原則を自分に残しているのだ。ほかの人は彼を付き合いやすいと思うが、実のところ彼は形に力を浪費していないだけだ。こういう人とは口げんかにならない。なぜなら彼はその勢いに乗らないからだ。あなたが東へ行けと言えば、彼は反対しない。あなたの進む方向へついて行き、行きながらあなたを彼の行きたいところへ連れていく。あなたは彼が言うことを聞いたと思うが、実はあなたが彼に導かれたのだ。
静まれば、水は清らかになる
水には、見落とされやすいもう一つの能力がある。一度静まれば、清らかになる、ということだ。
濁った水を入れた桶を、かき回さずにしばらく置いておくと、泥が沈み、水は自分から透き通る。水のような人にはこの能力がある。乱れたときに自分を静め、感情の泥が底へ沈むのを待ってから、判断を下せるのだ。感情を押し殺すのではなく、本当に沈むのを待つのだ。
これは堪えることと違う。堪えるのはこらえることで、泥はまだ水のなかで渦巻いている。水の静けさは、泥に沈む時間を与え、それから事の次第をはっきり見ることだ。多くの人に欠けているのはまさにこの一歩だ。事が乱れるとつられて乱れ、感情が浮かぶと決断してしまう。水のような人が勝つのは、その一拍を待てるからだ。水が清らかになるのを待ってから、手を動かす。この待つ一拍のおかげで、どれほどの手戻りと後悔が省けるか。せっかちな人は決断を三つして、二つ半を間違える。水のような人は決断を一つして、それを正しくする。彼が賢いからではない。待てるからだ。
一雫ずつ、石を穿つ
水のいちばん恐ろしいところは、柔らかさではなく、あれほど長く柔らかかったのに、なお在ることだ。
水滴石を穿つ、この四文字はだれでも言えるが、本当に考えてみるとその恐ろしさが分かる。一雫の水は、柔らかいことの極みだ。石は硬いことの極みだ。しかしその雫が止まなければ、いつか石に穴が開く。頼りにするのは力ではなく、止まらないことだ。
水のような人は、たいていどの一戦に勝つかではなく、時間に勝つ。今日少し進め、明日少し進め、一度に多くはないが、振り返ると、半年前はだれも無理だと思った事を、彼は黙って成し遂げている。騒がず、熱に浮かされず、必達の誓いも立てない。ただ止まらなかったのだ。この勝ち方は、相手にとっていちばんつらい。力を出さないのに止まらない人は、止められないからだ。石がいちばん恐れるのは洪水ではなく、軒先から絶え間なく落ちる漏りだ。洪水ならまだ防げる。漏りは防げない。いつもそこにあるからだ。
あまりに変われば、底を失う
水にも弱みはある。あまりに適応しすぎると、適応しているうちに、自分を溶かしてなくしてしまいやすい。
どんな環境にも溶け込める人は、長くいると、ほかの人が彼が本来どういう者かを覚えられなくなる。だれもが付き合いやすいと思うが、だれもが彼が本当に何を望んでいるか言えない。水のような人がいちばん警戒すべきは、おっとりが自分を溶かしてしまわないことだ。入れた容器の形になるのは能力だが、水は永遠に水であって、杯ではない。この一線は、失ってはならない。水のような人はある段階で、一つの問いに直面する。私は本当は誰か。だれとでもうまくいく、というのではない。すべての容器を除いたあと、私は本来どんな形をしていたか、という問いだ。これに明確に答えないうちは、おっとりは境界のなさになり、寛容は使い潰しになる。
私たち自身の話に戻ろう
今日、上善は水のようだ、と言うのは、たいてい愛想の言葉として言われる。しかし水が指し示すその体験は、実はだれでも触れられるものだ。正面からぶつからないが、止まらない。低いところへ流れるが、集まるほど深くなる。決まった形はないが、いつでもどちらへ流れるか知っている。乱れたときに静まれ、水が清らかになるのを待ってから動く。
あなたにこの水のようなたちまわりがあるなら、一つ覚えておくことがある。回るのはかまわないが、止まるのはだめだ。水が一度止まれば、停滞した水になる。そして、あなたのそばに、争わず奪わずにすべての用を済ます人がいるなら、その柔らかな力を軽く見てはならない。それはあなたの知るいちばん辛抱強い力かもしれない。水はだれとも争わないが、水が負けたことはない。ただ遅く勝ち、静かに勝ち、あなたの気づかないうちに勝つのだ。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。