食傷旺:胸のなかにいつもなにかあって、押さえきれない
DustEcho編集部

十神のなかで「食傷」は「食神」と「傷官」の総称であり、伝統的には表現、創造、外への放出をつかさどる——つまり、言いたい、つくりたい、じぶんのなかにあるものを外に出したいという力である。食傷が命式のなかで強くあらわれると、この「外へ出す」勁がとりわけ大きくなる。ここで吉凶を語るつもりはないし、だれかの命を読むつもりもない。ただひとつの体験を描写してみたい。胸のなかにいつもことばがあり、おもいがあり、つくりたいものがあって、おさえてもおさえても押しあがってくる。吐きだし、かたちにし、だれかに渡さなければ、つかえたままで落ち着かない。それは凶でも吉でもなく、ただ外へと流れでようとするあなたの力が、ひそかに強められているだけのことだ。
おしゃべりなのではない、なかの水が満ちているだけ
食傷の強いひとは、よく「口数が多い」「じっとしていられない」と言われる。しかし、それは見せびらかそうとしているのではない。なかの水が満ちすぎて、溢れるまで達しているのだ。食傷は、おさえきれない泉のようなものだと考えてほしい。おもいつきがつぎつぎ湧き、ことばは口元までせりあがり、言わないでいることは制限ではなく、身体的な膨らみになる。会話のなかでつい先走ってしまうのは、失礼だからではなく、湧きあがる表現欲が丁寧さより半歩早いからだ。本人も困っている。「まず話を聞こう」と思っているのに、もうことばが口まで出ている。口数が多いのではなく、あの泉の栓がしまらないだけなのだ。
ことばが口元まであふれ、おさえきれない
もっとも典型的なのは表現の側面だ。食傷の強い頭のなかは、止まらない放送局のようである。なにかを見れば批評したくなり、なにかを聞けば割って入りたくなり、ちょっとしたことを経験すればすぐにだれかに話したくなる。ものを書けば止まらなくなり、ひとことのつもりが長文になり、ひと言のつもりが連続する物語になる。これは誇示ではない。その「外へ出す」勁そのものが、じぶんの心地よさの源なのだ。なかを悶えさせているほうが、疲れるよりもつらい。ある友人は、いちばん嫌なのは発言を禁じられた会議だと言う。その一時間は泉の口に蓋をされたようで、終わったあと三十分は立て続けに話さないと回復しない。うるさいのではない。あの泉に、流れる場所が必要なだけだ。
手もじっとしていられず、なにかをつくりたくなる
食傷の強さには「つくる」側面もある。言いたいだけでなく、つくりたい、かたちにしたい、頭のなかのものを目に見え手にふれられるものに変えたいのだ。作業がつぎからつぎへと続く。手芸、絵、工作、没頭。手が止まらない。この創造の勁は長所だが、散りやすい。今日は曲を書こう、明日は動画をつくろう、明後日は陶芸を習おう——どれも手はつけるが、どれも浅く終わる。根気がないのではない。外へ出す勁が性急すぎて、ひとつを深めるところまで待てないのだ。まるでひとつの泉に出口が多すぎて、四方に飛沫は散るものの、どこにも深く溜まって池にならないようである。つくるものは多いが、じぶんのものとして残るものは少ない。残したくないのではない。その勢いがあまりに急で、「残る」ための時間さえ待ってくれないのだ。
せきとめられたとき、疲れよりも苦しい
食傷が強くていちばんつらいのは、せきとめられたときだ。言いたいことがあるのに聞き手がいない、つくりたいのに行く手を阻まれる、出したいのに出す先がない——その満ちた力が逆流して、ふくれあがるような閉塞感に変わる。職場がもっともわかりやすい。常に「口を慎め」「手順を守れ」と求められる環境は、消耗に近い。規則を守れないからではない。外へ流れようとする本能が腹のなかに押しこまれ、一日の終わりには栓をされた壜のようになってしまうからだ。反抗的なのではない。蓋をきつく閉められた泉が、なかで水をぐつぐつさせ、じっとしていられないほど煮えているだけだ。黙っていてほしいなら、まず流れる先をあたえてほしい。流れが出口を見つければ、全身がほぐれる——口を閉じろと言うより、そのほうが百倍効く。
あまりに早くあふれて、ひとは受けとめきれない
食傷の強いひとには、もうひとつ隠れたつらさがある。じぶんが外へ出したものが、相手にまだ受けとめられないうちに、つぎの波が届いてしまうことだ。熱心で、ことばが密で、おもいつきが多いが、聞き手には情報の洪水として届く。本人は不本意だ。「話を分かちあいたかっただけなのに。」しかし相手が感じているのは「早すぎて、ついていけない」である。この行き違いは、食傷が背負いやすい誤解のひとつだ。表現があまりに満ちていて、他人の歩調のなかに溢れこみ、好意が圧迫に変わってしまう。渡そうとすればするほど境界を踏みこえやすく、踏みこえたぶんだけ距離が生まれる。相手を大切に思っていないわけではない。あの外へ出す勁が、ひとの息つぎのすき間を忘れてしまうのだ。
存在を誇示したいのではない
食傷の強さは、しばしば「目立ちたがり」「存在を認めてもらいたがっている」と誤解される。まったく違う。目立ちたいというのは、他人にじぶんを見てほしいという欲求だ。食傷は、なかのものを外に出したいだけ——だれが聞いているか、拍手があるかどうかは、むしろ二の次だ。長文を書くのは、称賛がほしいからとはかぎらない。あの勁が満ちてきて、書かずには悶えてしまうからだ。会話に割りこむのは、場をさらいたいからとはかぎらない。おもいつきが湧いてきて、捕まえなければこぼれ落ちてしまうからだ。このふたつは大きく異なる。ひとつは外に承認を求め、もうひとつは外へじぶんを空けようとしている。「じぶんを空けること」を「注目を求めること」と取り違えられるのが、いちばんの不条理だ。ほしかったのは舞台ではない。ふさがれていない出口だったのだ。
よい出口とは、しっかり受けとめてくれる深みのこと
食傷の強さにいちばん必要なのは、押さえつけることではなく、正しい出口を見つけることだ。泉に必要なのは栓だけではない——受けとめて溜めてくれる深み、つまりきちんと聞いてくれる友人、いつでも手にとれる手帳、手を動かせる部屋といったものが必要だ。出口が合えば、あの満ちた力は行き先を得る。ことばはわかってくれるひとに届き、つくることは具体的なものに落ち、外へ出されたものは四方に跳ねる飛沫ではなく、じぶんのものとして少しずつ溜まっていく。にぎやかである必要はない。その泉が安心して流れられる場所が必要なのだ。深みができれば、泉は慌てなくなる。
落ち着きがないのではない、外へむかう勁が強すぎるだけ
食傷の強さを「落ち着きがないだけだ」と片づけるのは、不当である。これはもともと性格への断罪ではない。内側の力のかたよりを描写しているにすぎない。表現と創造の機能が強められ、安住と収斂の機能が相対的に弱まっている状態だ。このことがわかれば、多くの自己否定がほどけていく。定まらないのではない。ただ、その力を正しい出口へ向ける必要がある——押さえこむのではなく、出すべき場所へ出させることだ。聞き手となり、材料を与え、手を動かせることを与えれば、おさえきれなかった湧きも、しっかりしたものを生み出すことができる。むずかしいのは「出すな」ではなく、その勁を速さにだけ任せず、深さのほうへ振りむけることだ。十分の湧きのうち三分を沈めることに使えれば、残りの七分はもっと落ち着いて長く流れ、あの詰まりも怖くなくなる。
すこし現代ふうのいいかた
心理学では、強い表現欲や創造的衝動をもつひとが、内なるものを絶えず外化しようとし、それが叶わないときに苦痛を感じる状態が語られる。この描写は、食傷の表す体験にかなり近い。異なるのは一点だけ。伝統的な知恵はそれをひとつの根底的な力のかたちと見なし、現代の見方はそれを、気づき、ゆるやかに整えながら、ともに生きていける傾向のあつまりと見なす。名づけることは運命を受け容れるためではない。ついまた先走って口を出してしまったその瞬間に、じぶんを責める気持ちが少し減り、「ああ、またあの泉が湧いてきた」と思えるようになるためだ。それをじぶんという人間そのものではなく、ひとつの力として見られるとき、たくさんの内的な摩擦がほどける。泉をせきとめてしまう必要はない。深みへとつながる水路を掘ってやればいい——そうすれば、収まらない飛沫は、落ち着いた流れに変わる。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。