龍:誰も見ない場所で、まず鱗を整える
DustEcho編集部

龍は中国の文化の中で抽象的な感覚ではなく、何千年も繰り返し使われてきた象徴の姿である。紅山文化から出土した玉龍は今から五千年以上前のもので、商周の夔龍、漢の青龍、端午の龍船、帝王の龍袍まで、いつも同じようなことを語り続けている。変化と雨と力、そして隠すべき時は隠し、現すべき時は現すというリズムだ。これは誰か一人の性格のレッテルではなく、人がどうやって時機と付き合うかという一連の文化的な心象である。これをまずはっきりさせておかないと、龍と書くとすぐにあなたは龍なのだからという占いめいた口調に滑ってしまう。それは我々のやりたいことではない。
潜龍勿用 無いのではない、時がまだ来ていないだけ
易経に頻繁に引かれる言葉に潜龍勿用がある。これを出てくるなと解する人が多いが、本来の意味はもっとこうだ。龍がまだ水底に潜んでいるのは、弱いからではない。時がまだ来ていないのだ。あなたにもそんな時期があったはずだ。確かに腹の底に何かがあり、力も育っているのに、外からは認められず、巡ってくる機会もなかなか来ない。だからただ一人で黙って鍛え続けるしかない。周りはぼんやりしているように見えるが、自分だけは知っている。鱗を一枚ずつ揃えているのだと。誰にも見えないまま自分と張り合い続けなければならないその状態を、昔の人は潜という一文字で受け止めた。急かさず、見下ろさず、ただこう告げる。現すべき時でなければ、焦っても仕方がないと。
潜む辛さは、先が見えないことにある
しかし潜む辛さは動かないことではなく、あとどれだけ潜めばいいか分からないことにある。現代人が一番恐れるのは苦労そのものではなく、先の見えない苦労だ。書いたものが誰にも読まれず、作った企てがなかなか反応を得られず、学んだ内容が当分役に立たない。そうしたことが人を疑わせる。私はそもそも駄目なのではないか、自分を慰めているだけではないかと。龍という心象の良いところは、こうした不安を和らげる枠組みをくれることだ。今のあなたの場所は、天ではなく淵かもしれない。淵は失敗ではなく、まだ飛ぶ時ではないだけだ。認められていないことと、自分が駄目だということ。この二つを分けることが、潜龍が今の人にくれる最初の安らぎである。
見られる瞬間は、想像よりも受け止めがたい
次に来るのは見られることだ。面白いことに、多くの人は飛龍在天を終着点だと思っている。こんな爽快な結末だと。しかしその時が本当に来ると、想像よりも受け止めがたいことが多い。ずっと水底に潜んでいた人が突然前方の舞台に押し出されると、最初の反応は喜びではなく慌てることだ。照明が当たり、すべての視線が向けられたとき、自分は準備できているか、怖気を出さないか、相応しくないのではないかと疑う。龍の姿にはこの張り詰めたものが隠されている。飛べるが、飛ぶには風に耐えなければならない。現代人が見られる敷居はどんどん下がっている。一本の動画、一篇の文章、一回の発言で、隅から真ん中へ押し出されかねない。そんなまだ準備もできていないのに見られてしまったというめまいは、龍が潭の底から水面へ躍り出る瞬間と、体の感覚としては同じである。
隠せもし、現せもする。それが本当の腕
龍にはもう一つ、見落とされがちな意味がある。大きくも小さくも、昇っても隠れてもいられるということだ。ひたすら突っ込むだけでも、ひたすら隠れるだけでもない。現すべき時は現し、収めるべき時は収める。この伸び縮みこそが腕なのだ。我々の世代は二つの声に引き裂かれている。一方は見られなければ価値がないと言い、もう一方は焦るな、下地を固めよと言う。龍はこの二つを一つの体に収めている。どちらか一方ではない。淵に潜みもし、天に躍りもする。鍵はその時の水の勢いと風の向きだ。順調な時には収め方を知り、機会の前には現し方を知る。その伸び縮みの感覚は、ただ努力するよりずっと価値がある。
雲に乗り雨を降らす 蓄えきれば、自然に落ちる
龍の伝統におけるもう一つの顔は雲に乗り雨を降らすことだ。日照りが続くとき人が龍を待つのは、姿を現せと言うのではない。淵に蓄えた水を、地面を潤す雨に変えてくれと願うのだ。これは長く蓄えたあとの一人の姿にとてもよく似ている。蓄えたものがついに自分だけのものではなくなり、外へ働き始める。読んだ本、徹した夜、思い通ったこと。ある日それが、人を助ける一言になり、あるいは地に足つく決断になる。雨は無理に絞り出すものではない。淵の水が満ちれば、自然に昇って雲となり、そして降るのだ。現代人はいつもすぐに報いたい、今すぐ役に立ちたいと焦る。龍が雨を降らす心象はまさにその逆だ。まず真面目に淵に水を蓄えよ。降るべき時には、一雨あれば十分なのだ。
群龍に首無し、それもまた吉
易経にはまた用九、群龍に首無きを見る、吉とある。一団の龍がそれぞれの場所にいて、一番になろうと争わないからこそ良いのだという意味だ。現代の我々はあなたが先頭に立てと強調しすぎている。率いないことが遅れているようだと思わせる。しかし龍の姿にはもともといつも前にいる必要はないという落ち着きが備わっている。淵にいる龍もいれば、田にいる龍もあり、天にいる龍もある。それぞれの場所があり、誰かの上に圧し掛かる必要はない。自分の場所に安んじて、その首を争わないことのできる人は、実に珍しい自在さである。群龍に首無きは乱れではなく、各々がその場に収まっていることだ。この緩やかさと潜龍勿用は、一つの硬貨の両面である。
本当に難しいのは、今自分がどこにあるべきかを知ること
本当に難しいのは、これまで必死に潜ることでも勇んで飛ぶことでもなく、今この時自分がどこにあるべきかを知ることだ。潜るを逃避にしてしまう人は多い。下地を固めていると言って、手を出す勇気の無さを覆う。飛ぶを暴走にしてしまう人も多い。見られたいと言って、根が十分に張れていないことを覆う。龍という姿の最も鋭いところは、誠実に見極めさせることだ。今のあなたは本当に鱗を生やしているのか、それとも先延ばしにしているのか。今のあなたは本当に現すべき時なのか、それとも寂まずにはいられないだけなのか。この見極めを代わりにしてくれる者はいない。誰も龍に代わって、いつの日出水すべきかを決めてはくれないように。
だから龍と書くとは、あなたは龍だからきっと凄いのだと書くのではない。誰もが持っているリズム感を書くのだ。誰にも見えない場所で一人で何かを育てなければならない時期もあれば、不快感を抱えたまま光の中へ歩み出さなければならない時期もある。違いはただ一つ。ぼんやりと耐え抜くか、それとも潜んでいること、待っていること、あの飛び立ちのために備えていることを、はっきり自覚しているかだ。昔の人はこの複雑な心身の状態を、隠せも現せもする一匹の龍に凝縮した。今の我々の安らぎは、おそらく時折自分にそう言えることにある。今はまだ潜っているのだ、急がなくていいと。
DustEcho編集部が執筆・確認した自己観察と文化的探求のための文章であり、カウンセリング・医療診断・専門的助言ではありません。